何がしか派生的・副次的に生まれる生産物を、最近は"スピンオフ"とか"スピンアウト"と呼ぶらしいが、なにそんなハイカラなもんじゃない。今日は、せいぜい、はみ出し・出がらし 程度のお目汚し・御機嫌伺い。
対談本『泣き笑い 映画とジャズの極道日記』に中山信一郎と同じく昭和の映画とジャズを語った武市好古(1935~1992年)のことが出てくる。懐かしくなって古い武市本を引っ張り出してみた。
『映画を見るたびにぼくは少年に戻って行くく マイ・ティージング・ハート』【1992年12月 話しの特集 刊】
1981年7月上旬号から1986年4月上旬号まで『キネマ旬報』に連載していたものだ。副題のティージングについては、連載冒頭で御本人が解説している。
「ティーズ(tease)ということばがある。これは、いじめる、悩ます、からかう、ひやかす、なぶる、などの意味が一般的には知られているが、ぼくは、どういうわけかすぐ「じらす」という日本語を想像してしまうのだ。どういうわけかなどと気取ってみたが、実のところネタははじめから割れている。ぼくにとってのティーズは、ストリップティーズのティーズなのである。
(中略)実は、ティーズこそエンターテインメントのコアとなる技術であり、思想であるとぼくはつねづね考えているのである。ティーズこそ芸であり、ティーズ抜きのエンターテインメントなんて、チーズのはいっていないチーズバーガーのようなものなのである。」
中身はすっかり忘れてたが、こんな文章もあった。
「あこぎ」のすすめ
映画なんてものは、もし観客が百人いれば、百通りの見方があるはずで、こう見なければならないという絶対の見方はないのである。文学などよりも映画は、アイマイなものであり、そのアイマイさがまたおもしろいのだとぼくは思うが、だからこそ自分の見方をはっきりと持っていないとアイマイのまま映画を受け入れてしまうのだ。
ぼくは映画ファンのプロとして恥ずかしくない人になるためには、「あこぎ」が大切だと思っている。あこぎとは、「あこがれ」「こだわり」「ぎんみ」のあこぎである。
とりあえず、映画にあこがれ精神を持つ人間であり、そして映画にこだわる好奇心と実行力を持ち、さいごは映画を自分のセンスで吟味する能力を持つことである。
この三つを持つことができたなら、何もこわいものはない。あなたは即プロの観客である。(中略)
あこぎになれないような人は映画ファンの資格なし、とぼくはいいたいのである。」
巻末には和田誠「武市ちゃんとのつきあい」もこんな一節も。
「「あこがれ・こだわり。ぎんみ」これはぼくたちの世代のファンなら多かれ少なかれ持っている要素であるが、情報も少なく鑑賞に不便だった時代のファンならば、自然に培われてしまったものかも知れないと思う。情報豊富、ヴィデオたくさんという時代だと、労多くなく観たいものに手が届くから、幸せな反面、「あ・こ・ぎ」は薄められているようだ。」
「好意的・肯定的に向き合いながら、骨までしゃぶって容赦なし」の精神(姿勢・構え)、謙虚な真剣勝負。
別の武市本(『昔の映画をビデオで見れば』【1990年12月 新潮社 刊】)にはこんなのもあった。
「監督が一番力を入れているシーンをちゃんと見て取り、捨てカットには目もくれず、おもしろさだけをしっかりつかまえる。これができれば名観客である。名監督や名優が存在するなら名観客がいても不思議ではない。」そうだよなぁ。