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紙ヒ3 映画・信仰・恋愛

紙ヒ通信その三は、「映画・信仰・恋愛」。
適宜抜粋しながら引用。

ずいぶん大げさな題だとおもうだろうね。

かねがね作品の批評において他人と食い違ったとき、小説ではそんなことがないのに、映画にかぎって反射的にカッとなるのは、なぜだろうとおもっていたので‥‥

書物だと、読むのが一人一人べつべつの個人的な作業であるのは、はっきりしている。
映画は、みんな同時におなじものを見ているつもりでいて、じつは一人一人の知識や経験や、趣味や感性や、最近とりつかれている問題や考え方や、当日の気分や、出がけにあったできごとや、そのほか意識下に隠れて本人も気づかずにいる無数といっていい要因に応じて、それぞれべつのものを見ている。
問題はまず、ここにありそうだ。

評価がはなはだしく相反したとき、相手が馬鹿におもえて一時的にもせよほとんど全存在まで否定したい気持に駆られるのは、そのまえに、こちらの知識や経験、趣味、感性、問題、思想、気分、潜在意識‥‥等々、つまり全存在を否定された、と感じているからではないのか。

反射的にくるからね、カッと。

自分がいいとおもった映画を、けなされたときは、わかってないなあ、と相手にたいする優越感や憐れみで気持ちを中和して、わりと平気でいられるが、全然よくないとおもった映画を、だれかが褒めたときのほうが、腹の立つ度合が強い。これもやはり、間接的に自分の存在を否定されたような気がするからじゃないかしらん。

あのカッとくる感じに、匹敵する強さをもった反撥としておもい出されるのは、自分の恋愛を否定されたときのことだ。恋愛感情と映画を見る気持には、共通しているところがあるのだろうか。

恋愛のばあい、好きな相手をけなされると、烈しい憤りを抑えかねるが、嫌いな相手にだれかが惚れたとしても、あほなやっちゃ、とおもうか、蓼食う虫も好きずきだな、と感ずるだけで、べつに腹は立たない。
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映画ファンはたいてい、自分がいちばん映画がわかる、とおもっている。
三鷹禅林寺で行われる桜桃忌に、ぼくは行ったことがないのだけれど、まえにある方から、集まる若い人たちがそれぞれ、太宰がわかるのは自分だけだ、ほかの連中になにがわかる、という顔つきであたりを睥睨している、と聞き、そのありさまが目に見える気がして、吹き出した。
じっさいには太宰の小説ほど読みやすく、わかりやすい面白さをもっているものはめったにないのに、そうおもいこむのは、奥野健男が指摘したように読者を潜在的二人称にして語りかける文体で書かれているので、読むほうはそれを自分だけに宛てられた私信と感じはじめ、やがて自分は太宰によって選ばれた読者だと信ずるにいたるのである。
映画にも、観客を潜在的二人称にして語りかける性質があるのだろうか。さよう、映画は多数の観客に同時に語りかけながら、ひとりひとりに一対一の語りかけも行なっている。とうぜんそこには、自分は選ばれた観客でありたい、という願望も生じるだろう。
このことは、闇のなかで複数の観客が、おたがいの顔は見えない位置関係で、スクリーンに相対していることにつながりがあるとおもう。
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カルト・ムービーと呼ばれているものでなくても、たいていの映画には、宗教的な崇拝や、熱狂や憧れや研究熱をかきたてる要素が、少しずつでもふくまれている。
宗教的崇拝、つまり信仰ということになると、‥‥われこそはイエス・キリストに選ばれた真の信者であるという教義上の対立が果し合いや殺し合いになったりしますからね。
映画が多かれ少なかれカルト的感情をよびおこすのは、いろいろな要素のほかに、スクリーンが観客席から見上げる位置にあることも無関係ではないとおもう。
それじゃ、二階席から見下ろす場合は、どうなるかって?
好きだったり、憧れたり、崇拝している人を、遠くから見つめている気持になるんじゃないかな。距離の遠さが、カルト的感情を薄めるよりも、かえって強めることもあるのは、ご存じでしょう。
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‥‥問題を提出しただけの今回は、映画を「見る」ということのなかみについてやがて書くエッセイの、予告編のつもりである。

結びはいささか性急で、尻切れトンボの感なきにしもあらずだが、
長部さんの頃の「スクリーン」だけでなく、「モニター画面」や「スマホ・ディスプレー」で「見下ろしたり」「手のひらに載せる」時代になった今、映画は憧れや崇拝ではなくなってしまった。遙かなスターは消え、ご近所にも居そうなアイドルばっかり。
それでも、今一度いや何度でも
〈映画を「見る」ということのなかみ〉についての省察(&精察)は必要だ。
そういえば、「潜在的二人称にして語りかけることはよく出来た広告コピーの要諦である」と糸井重里も何処かで言ってたなぁ。「誰にでもわかる(伝わる)ことをアナタだけにわかる(伝わる)ように書く」とか何とか。