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「時間拘束衣」としての映画

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岩波書店のPR誌「図書」の2021年11月号に載っていた鷲田清一の「時間論」が面白かった。

現実というのはほんらい、いろんなリズムを刻む時間が錯綜しているものだ。内臓の時間、自然の時間、時計の時間、歴史の時間などなど。そのなかでいろんな出来事が「あれもこれも」「次から次へと」「ここにもそこにも」と犇(ひし)めく。

通勤の時間、会議の時間、作業の時間、くつろぎの時間。あるいは、矢のように去る時間、泥のように滞留する時間、予測のつかない時間、いつまでも過去になってくれない時間、緊迫した瞬間の連続‥‥。オン/オフがひっきりなしに交替する。さまざまな出来事が複数の次元で同時に、あるいは少しずつずれて、始まり、終わる。そう、雑然、雑多。複数の時間が絡まり、積層しているのが、わたしたち一人ひとりの現実だ。

そしてそれらの一つひとつに、さまざまの「折り目」や「節目」といった仕切りが差し込まれている。

「残念だがパーティは次回にお預けだ――パンデミック下の時間感覚」という文章からの引用。鷲田は続けて「パンデミックが「折り目」や「節目」という時間の律動をむなしくし、《いま・ここ》という瞬間に閉じ込められて時が流れないことの危うさ」を説いていくのだが、これ以上は触れない。

以下、鷲田論考を読んで、映画館の中の時間について思ったことを書く。

映画館で流れる時間は、「わたし」の時間ではなく、映画の時間だ。映画館は、普段「複数の時間が絡まり、積層化した時間」を生きているわたし(たち)の日常時間を脱いで、単一の時間に身を委ね集中する場所だ。そうなのだ。映画館で見る映画は「時間拘束衣」なのだ。そこには、拘束されることの快感が生まれる。自分を抜け出し、溶けさせる「脱皮・脱衣の快楽」、それが映画だ。モニター操作で一時停止や巻き戻し再生、早送り視聴なんてのでは、この快楽は得られぬ相談だ。 【この項もう少し考えていく】