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「おうちごはん」

伊野孝行×南伸坊の本『いい絵だな』へー知らなかったという発見

そのニ:「おうちごはん

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伸坊 鶴見俊輔さんの『限界芸術』では、玄人が玄人に向けて作るのが「純粋芸術」で、玄人が素人に向けて作るのが「大衆芸術」。それだけじゃなくて「限界芸術」っていうのがあって、それは素人が描いたいたずら書きとか、遊びとか、いろんなことすべてが「限界芸術」っていう芸術なんだっていう。

  [引用者註:鶴見は落書き、手紙、早口言葉、民謡、盆栽、漫才、絵馬、花火、など、「暮らしを舞台に人々の心にわき上がり、ほとばしり、形を変えてきた芸術的な表現」(Wiki)をすべて限界芸術だと言っていた。]

伊野 「限界」っていう言葉がちょっとむずかしいですよね。

伸坊 「マージナル」っていう言葉を日本語に移す時に「限界集落」って使うみたいに限界って言葉を使っちゃったんだけど、「限界」っていうと一般的には「限界状況」とかさ、何かすごいイメージにきこえちゃう。それが「折り紙」とか「早口言葉」も、限界芸術だって。むしろ今なら英語のまま「マージナル・アート」って言った方が通じやすかったかもね。素人がやっていることも芸術なんだっていう。

伊野 マージナルは、「周辺」ということですか。

伸坊 糸井(重里)さんにさ、限界芸術論の話をちょっと話し始めたら、「あ、それはおうちごはんってことだね」って言ったの。割烹料理店があって、大衆食堂があって、おうちごはんがある。割烹料理は純粋芸術で、大衆食堂は大衆芸術、で、家で作るおうちごはんが限界芸術なんだと。割烹料理はたしかに値段が高かったり。まさにそのままピッタリ合うんだよね。料理も芸術も味わうもんだからね。

伊野 うまいたとえですよね。自分の舌で味わえばいいってことですよね。今、美術関係の本で売れてるのって、結局、割烹料理の解説書みたいなものじゃないかなって思うんです。絵の背景にはこんな神話や物語があって、それをこういうふうに表してるとか、この画家にはこんなエピソードがあるとか、この現代美術はこんな意図のもと作られたとか。

伸坊 勉強したら面白いっていうのは、あー、そうだね。みんなむずかしく考えてるよね。重要なのは喜ぶとこ、自分が喜ぶとこなんですよ。それは勉強しなくちゃ起こらないんじゃない。勉強さえしたら絵が面白くなる、味わえるようになるっていうんじゃない。グルメ情報うんちくもりもりになったら、おいしくなるわけじゃないのと同じだよね。

伊野 それは絵のまわりの知識であって、絵そのものを見ることとは別なんですね。

う~ん、「おうちごはん」さすがゼニの取れるコピーライター、うまいこと言うもんだ。けれど、やっぱりなぁ。映画は大衆芸術(と、たしか鶴見俊輔先生も生前言っていた)。素人の「おうちごはん」の美味しさを否定するわけじゃないけど、たまにはほんまもんのプロ=玄人が練達の技をさらりと使って仕上げた大衆食堂・町中華をしっかりたっぷり味わいたいものだ。