2ペンスの希望

映画言論活動中です

⑨一人の力から始まる‥のだが

伊藤さんと同じ岩手県一関出身で後輩・小学館の編集者 菅原朝也さんのエピソードが面白かった。(本の中には菅原さんの個人名は出てこないのだが‥)

世界の中心で、愛をさけぶ』は実は彼が見出した。高校の教員だったんですが、『大辞泉』の編集作業に応募して辞書の編纂を何年かやった。それが終わって小学館としても人事に困って。会社として文芸書をつくったことがなかったので、初の文芸書担当として、たった一人で始めたわけです。

最初はメジャーな作家に当たって、見事に断られた。それは織り込み済みだったから、やっぱり自分で作家を育てるしか方法はないということで、まず、ネットで発表している人たちの文章を全部読んだ。その中で彼が注目したのは文体だそうです。この人の文体はいいが、テーマはこれじゃ駄目だと作者に手紙を送った。会っていただけませんかと。会って、テーマをだして、書かせて、それでヒット作を次々送り出した。

(伊藤)はね、一人の力ってこんなに大きいのかと。彼は端から有名な作家を諦めて、自分で育てる、自分が作家をつくればいいじゃないかという発想になった。

あの「セカチュー」や「いまあい」のブームは一人と力から生まれたものらしい。ウイキペディアによれば、『恋するソクラテス』だった原作タイトルを『世界の中心で、愛をさけぶ』に変えたらと助言したのも彼だとある。(ウイキペディアなので真偽のほどは保証しかねるが‥)

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ネットで、菅原さんの講座の感想記事も見つけた。

(ブログ:馬鹿ラッチ2.1 編集・ライター養成講座受講ログ「書籍編集者の仕事」2010.1.25. 投稿者ボーノ)

本を売るのに実に地道な作業をやっている。

例えば、ある長野出身の作家が長野を舞台にした作品を作って、これを売りたいとすると、長野の地方新聞、テレビ局、書店などに編集長自らが乗り込んで宣伝してまわる。長野で強い影響力をもつ系列書店に売り込んで、平積みコーナーを作ってもらう。そしてあるひとつの系列書店で、在庫が動き出すと、全国チェーンの書店がそれを察知して仕入れにかかる、てな具合で、ブームっていうのは、起こるものではなく、完全に努力で起こすものなんだな、ということ実際の話として知った。

もうひとつ、菅原氏自身が実は「セカチュー」「イマアイ」といったものはある程度薄っぺらいブームである、ということを重々承知していた。ありきたりな、まるで韓流ドラマの様な本でも、選んだのにはちゃんと理由があって、例えば、「セカチュー」で描かれている死生観はそんなに侮れるものではない、と言っていた。そして、そういったブームや売り上げとは別に、これは!と思うものは、例え売れないと分かっていても、文化を受け継ぐものの責任として出版し、こつこつ売っていく、とも。

そう語る菅原氏の姿勢には、軽薄なブームの仕掛け人という印象は微塵もなく、とにもかくにもブームを起こして、一人でも多く活字に馴染んでもらおう、読書人口を増やそう、そしてその中から、本の素晴らしさに気付いてくれる人を一人でも増やそう、という、文芸に対する真摯な思いを感じた。」

善し悪し、好き嫌いは別だ。アザトイっちゃアザトイ。評価は任せる。

今日は、イマドキの編集者は受け身の黒子でなく、自ら動く仕掛人・プロデューサーでなければならない、という逸話。

⑧数字を信じるな

今日も数字の話。但し、数字を鵜呑みにするなという伊藤さんの警告。

岩手日報の連載「いわての風」(2014/08/31)から引く。

 「一部の特定の作家だけが面白いわけではない。むしろ、まだほとんど無名に近い人たちの中に面白い作品が多い。しかし、現実には、テレビや映画化された作品やマスメディアで紹介された作品に読者は集中しすぎるきらいがある。それでいてベストセラーはつまらないと言う人がいるが、それはほとんど真実なのだ(逆説ではなく)

ばらしてしまうとベストセラーは意図的につくられることがある。大都会にある指標となる大型書店のベストセラーはさまざまに利用されるので、出版社や読者が大量買いをしてベストテンの上位に入れるということをしばしばやってきた。それが売れ筋情報として全国に流れる。うのみにすると、つまらない作品だったという感想が生まれるのだ。(太字強調 引用者)

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映画の世界でもよくある話だ。

食玩大人買い(箱買い)、押しアイドルCDの大量買いなんてのもある。

例えば西村京太郎さんは、今、書店ではほとんど売れてないんです。ところが、駅の売店とかで売れてるから、数字上は売れてる。その Sランク(引用者註:出版社の押し評価ランク)を信じて書店が入れると、何でSが売れないんだと。だから、統計の魔術なんですよ。それに気づけばね。

テナントに入っている書店のデータだと、『オレンジページ』関係とか『主婦の友』とかの料理本、そういうものが売れてるんですよ。ところが、まちにある本屋ではそういうものは全然売れません。そういう客層は来ませんから。だから、データをどういうふうに読むのかということも、みんなに教えたいんですけどね。‥‥ データにごまかされない。‥‥ ノーランクのところから、自分の店に合ったものを選んでいく作業。‥‥ 無名の中のこれはおもしろいというのを選んでいく。‥‥ 」(同じく 太字強調 引用者)

顧客を知れ。自分の目で当たれ、という当然至極な話。

 

 

⑦「買うより借りて読む」

今日は「へぇ 知らなかった]の続き「数字」の話。

ちょっと古いが、伊藤清彦さんの岩手日報連載記事「いわての風」(2013/12/29)から引用させて貰う。

出版業界の売り上げ不振は深刻度を増している。それを象徴するような現象が、実は昨年現れている。昨年一年間の書籍発行点数は約8万2200冊。平成元年と比べると3倍強と膨れ上がったままだ。

それに比して書店の数は約3万店から1万4千店と激減。地元の小さな書店が廃業し、超大型書店とナショナルチェーンの店が席巻しているのが現状だ。ネット書店も隆盛をみている。売り場面積は増大しているにもかかわらず、出版物の売り上げはどんどん落ち続けている。さまざまな理由が語られてきたが、ゲーム業界にお客を奪われたというのが、長い間の理由づけのトップ。

でも、実は、公然とは言えない理由があったのだ。公共図書館はここ10年で500館増え3230館前後。個人貸し出し冊数は5億7100万冊に激増している。

昨年度でいえば書籍の販売総冊数は6億6700万冊だったので、買う人と借りて読む人数が逆転してしまった。読書離れではなく、買って読む人が減ったというのがどうやら真実らしい。(太字強調は引用者)

最新のデータは知らない。おそらく町の路面店はさらにさらに減り、電子書籍売上はぐんぐん伸長し、買うより借りて読む人の逆転はもっと拡がっているのではなかろうか。

出版不況をゲーム市場の驚異的拡大、他人のせいにしているかぎり、業界は救われない。読む人は読む。それもかなりヘビーに。

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実際最寄りの市立図書館では「購入リクエスト」が激増し、「かなりの確率で購入してくれる」という声を聞く。

 

⑥知らなかった

子供のころから本屋や古本屋は好きだった。書店勤務や出版関係の仕事に就いた友人知人もいる。そんな関係で多少の業界事情は理解しているつもりでいた。けど、この本『本屋と図書館の間にあるもの』で初めて知ったことも多い。

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「平台・平積み」や「面陳」「差し」は知ってたが「ショタレ:書垂れ」というのは知らなかった。返品期限を過ぎてしまい取次に返品できなくなってしまった不良在庫のことだ。 雑誌類は廃棄処分となるが、書籍は難儀なやっかいもの、売れそうにないし返すことも出来ない。

ISBNコードとPOS管理で過去のものとなりつつある「スリップ」だが、報奨金の関係もあり、今も重宝されているようだ。

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形式は様々、返品期間や買い切りによって色分けされ、出版社はスリップの色でランク付け評価・操作している。書店サイドは間違えると上記の「ショタレ」になるので、ゆめゆめ管理が怠れない要注意事項、最重要ポイントに一つになっている。

へーっと思ったり、成程そうなんだと感心したり。

書店員さんの九割近くは女性で、ほとんどがパート。最近芥川賞直木賞より注目されベストセラーの近道と話題の本屋大賞だが、実は彼女たちが好む本が選ばれやすい。という意味では偏りが否めない。とか、

最近の学生の部屋には本棚がなくなった。本は電子ブックかスマホタブレットで済まし、本棚を必要としない生活が当たり前になっている。」とか、

町の書店は売上の60%以上がコミックと雑誌。負けるのは大規模大手競合店ではなくコンビニ。週刊誌もマンガ誌・コミックも全部コンビニにもっていかれちゃた。定期購読の配達がメインだった雑誌が全滅して閉店。配達というのはばかにならない。顔を見れば来月もお願いしようかとなるし、これもついでに、とご用聞き的なところもある。コンビニはそういう人間関係を完全に遮断したところで成り立つものだから、(町の書店の)代わりにはならない。」とか、

施設の老朽化で公共図書館の建て替え・リニューアルが進む中、先進的な試みも始まっている。カフェー併設や各種イベント・販売タイアップなどは当たり前だが、駐車場の空きスペースに日替わりでキッチンカーがやってくるケースも。」とか

地方の廃校空き校舎を本の置場所に活用しようという動きも」とか

昔を振り返るのではなく、元に戻るのでもない。まったく新しい扉を開こうとする試みは、映画業界にも切望されている筈だ。

 

 

 

 

⑤フローとストック

本屋と図書館は、当然のことだが全く違う。本屋は本を売る小売業、お商売の世界、図書館は多く公立・公設・公営が多い。学校などに付帯附属併設される、別世界だ。自ずと役割分担がある。岩手日報の連載記事「いわての風」で伊藤清彦さんは何度も書いている。

一言で言えば、書店(とりわけ新刊書店)は、フロー機能で、図書館はストック機能が最重要だということだ。「今の書店業界が陥っている粗製濫造・大量返品・廃棄の流れの中から後世に残したい出版物を拾い上げてゆく仕事こそがこれからの図書館の大きな役目であり、より専門性が問われてくるようにおもうのである。(2014/05/04掲載記事から)

店舗面積に限りがある本屋では、いつまでも「何でもおける」わけではない。「書店で一番大事なのは入れる作業じゃなくて、やっぱり削る作業なんです。」公的バックグランドを持つ図書館は、「すべての本には読者がいる」ことを忘れずに、「あり続けること・置いてあることの意味と価値」を肝に銘じて欲しいと強調する。図書館は、コレクト&ストック&アクセスの重要性・かけがえのなさに自覚的であるべしと主張する。

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発行部数の激減が止まらない純文学系の月間文芸誌や昔の雑誌類を短期間で早期に除籍・廃棄処分する風潮に警鐘を鳴らす。税金で賄うのだからと誰からも文句の出ないよう保守的になりがちだが、時代が変わったことをふまえた革新に乗り出して欲しいと語る。
とりわけ、「貸出回数を除籍の基準にする愚」は改めるべきだと伊藤さんは言い続けてきた。「そうしている限り世に少ない本が除籍・廃棄され、世に沢山出回っている本を沢山保存していることになる。

 フローとストックの役割分担、映画の世界のこれからにも役立ちそうなヒントが詰まっているように思うのだが‥‥封切り公開主体の映画館と旧作専門映画館、「NFAJ:国立映画アーカイブ」や「記録映画保存センター」などの充実、配信サブスクリプションビジネスの任務分担、相互補完、ライブラリーラインナップの強化とアクセス権の確保‥‥、どなたか本気で検討されてみては如何。

 

④本屋と図書館は敵 ?!

数年まえ、文藝春秋の松井清人前社長が全国図書館大会で呼びかけたお願いが物議を醸したことがあった。「できれば図書館で文庫の貸し出しをやめていただきたい。これがお願いです」

 2015年10月29日のブログに「出版業界の悲鳴も分からぬではないが、まるで矛先がズレている。そんな気もする。」と書いたことを思い出した。言葉は、やんわり控え目だが、「お門違いも甚だしい。本が売れなくなった主因はそんなところにあるんじゃない、大手出版社のトップがこんな認識でしかないとは、いやはやなんともオソマツ、情けない」本心はそんな辺りだった。自らの不調を近くの他者のせいにするのは世の常だがよした方がいい。それで事態が好転したり、問題が解決に向かう例は残念ながら少ない。

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正社員かアルバイトか、正規職員か派遣・非正規雇用のパートかを問わずに言えば、書店員も図書館員も、何らか「本」に惹かれるところのある人だろう。週刊誌や雑誌販売の主軸となったコンビニや駅売店の店員さんに同レベルの本に対する知識や理解、関心や愛情を期待することは難しいし酷だろう。コンビニはそういった人間関係を完全に遮断するところで成り立っている職種だし、そもそものミッションが違う。図書館員には過去に書店で働いていたりアルバイトした経験を持つ人も多い。書店や図書館で働く人は、間違いなく本に対する知識や理解、関心や愛情を持つ仲間なのだ。作家や版元・流通・販売・読者まで含め、すべては本という国に住む「読書人」なのである。(管理人は、映画をつくる人、見せる人、見る人、つまりは何がしか映画に関わり映画本位制で生きている人士はすべて「映画人」だと考えている。)

書店から図書館に転じた伊藤清彦さんも生前「書店と図書館はともに補完し合う関係なんだ」と繰り返し強調していた。

その昔、映画の世界にも「映画は映画館で観るべし」それ以外は邪道だ、と主張してやまない原理主義者が少なからず居た。正直に言えば管理人にも「その想い 分からぬでもない。そうだそうだ」と秘かに応援してきた過去がある。けど、残念ながら最近そんな声は聞かなくなった。(もっとも、今も黙っていそいそと毎日のように映画館に通う筋金入りの映画人も居られることは承知している。管理人の周りにもそんな頭の下がる人士が僅かだが居る。)

シネコンもミニシアターも名画座レンタルショップもTV放映も配信もいがみ合い、ののしり合うのではなく、「補完し合う関係」へと進駐する道を拓いてみることだ。

もっとも、野合・馴れ合い・傷のなめ合い・責任のなすり合いなんてのはゴメン蒙りたいが。

 

③ラジオの力

うろ覚えで申し訳ないが「テレビは情報の 終末処理装置」と言ったのはいとうせいこうだったと記憶する。もう三十年以上昔のことだ。テレビで採り上げられる情報なんてその筋の業界ではとっくに知られた出がらし情報だらけ、よってテレビに流れ始めたら、流行は尻すぼみ、もはやオシマイだそんな趣旨だった。その頃ちょこっとだけテレビ番組の現場を経験しはじめた身でしかなかったが、確かにその通りだと共感した。怠惰で傲慢不遜。テレビマン、とりわけキイ局の社員諸君には呆れたり失望することが多かった。もっとも出来のいい人に出会わなかっただけのことなんだろうが‥こりゃアカンと思ってしまった。その頃、ラジオ(民放中波)は落ち目=底だった。誰が聴くの、時代遅れのポンコツメディアとさんざん言われ続けていた。

当たり前だが、人気のラジオパーソナリティは全国にいる。多分どなたもそれぞれに懐かしく親しい名前がすぐに浮かぶことだろう。伊藤清彦さんは本『本屋と図書館の間にあるもの』の中でこう書いている。

さわや書店のころ、民放のIBCラジオというところで10年間本の紹介番組をやっていたんです。‥‥(中略)‥‥ 僕は本を売るというより、本を伝える。書店でありながら本を伝えるにはどうしたらいいかということばかり考えるようになって。ラジオはほんとにいい経験でした。賞を獲った本は一切紹介しない。そういう有名なやつじゃなくて、新人だけどこの作家はおもしろいとか、みんながあまり気づかないような本を紹介するんです。テレビよりラジオです。テレビは毎週2回、やっぱり本の紹介をやっていましたが、出てたねと言うだけで、本なんか誰も覚えてない。ところが、ラジオの場合は10分番組でしたがが、よく聴いてくれているんです。それは驚きでした。(44頁)

 昔、仕事をした時の高嶋ひでたけアナの言葉が今も耳に残る。

ラジオは沁みるんですよ

テレビよりラジオ、最近ますますその思いが強くなるばかりだ。

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