2ペンスの希望

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今は昔‥それでも人は行く

かつて、映画は娯楽だ、いや、芸術だ、という議論があった。
娯楽でもあり芸術でもある、それでいいじゃないか。どうして狭隘に考えようとするのだろうか。「ふる〜ゥ、おっさんズレてるんちゃうか」と今なら一蹴されそうな話だが、そうでもないから、話はやっかいだ。最近の映画にも、「映画は売春なんかじゃない!アートとしての映画の灯を守れ」と声高に叫んでいるのがあった。いい加減にして欲しい。引き合いに出されて悪者にされた「売春」にも失礼な話だ。そういえば、昔々、映画人がTVのことを「あんな電気紙芝居みたいなもん」と蔑視していたことを思い出した。その時も、TVのことより「紙芝居屋さん」に随分と失礼な言い草だなぁと感じた。紙芝居は下等なもの、TVもそう、映画は上等‥そう考える心根は貧しく卑しい。何度も書くが、ジャンルに上下なんてないんだ、紙芝居にも優れたものもあれば、駄目なのもある。TVだって、映画だって同じこと。人のイトナミとしての売春もそうだと書くと、ますますの脱線、加えて何処やらから怒られそうだから、これ以上は書かない。

時代が変わったことだけは、確かだろう。西河克己が書いている。(『映画修業』権藤晋ワイズ出版 1993年3月刊)
当時の映画は必需品。ある意味では娯楽ではない。娯楽とは意味合いが違って、教養を高めるもの、社会知識を高めるもの、そういうもののひとつ‥‥世界の窓‥‥人生勉強の場所でもあった‥
情報があふれ、選択肢は格段に拡がった。
既に、映画館で映画を観るという経験を持たない世代が過半数を占める、そんな時代が来ている。

社会とともに、映画も変わる、それは良い。
滅びるものは滅びに任せればよい、正直、その思いも強い。
OSが変わったのだから‥
しかし、
日本の映画人が精進してきた技術・技法、観客が研鑽してきた見識・眼力が失われるとするなら残念至極だ。
プロ技(作る人・見る人)百余年の蓄積とその継承を図りたい。

既成の映画概念それ自体を一旦「白紙還元」して、資本の論理ではなく、個人の幻想でもなく、異なる別の原理による再生を目指したい。
時代が変わっても、映画を生きる人がいる限り、ベストを尽くしたい。そう思う。

この項、つづく。