2ペンスの希望

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撮影所

ないものねだりは愚の骨頂だが、撮影所が無くなって失ったものは思っている以上に大きい‥この頃とみにそう思うようになった。「作りやすくなったが、食えなくなった」とは何度か書いてきた。その結果、飯の種は何か別のことで賄(まかな)いながら、映画に打ち込む人は少なくない。もっとも、アルバイトをしながらひたむきに絵を描き続け、五十歳を超えて一躍脚光を浴びるようになった石井一男さんのような画家の例もある。今や映画もそんな風にしてしか成立しなくなってきたのかもしれない。しかし、何となくしっくり来ないのだ。当ブロガーが「映画は集団作業の産物だ」という固定観念から逃れられない古い人間なだけなのかもしれないが‥週末映画監督というありようが正直イメージできないのだ。それって、やっぱり趣味で、とか、アマチュアって事じゃないのだろうか。(誤解してもらっては困るが、趣味は駄目、アマチュアはアカンなんて全然思わない。むしろ、オレはプロだ、業界人だという輩のたしなみの無さには正直辟易する。)
撮影所とは何だったのだろうか。色んな答えがありそうだが、こんな風に云えないだろうか。「二十四時間四六時中、映画(作り)のことだけを考えて給料を貰う仕事場」。
撮影所なき今、バイトの合間や片手間で腕を磨けと言われているようで、可哀想になってくる。
‥と、ここまで書いて、ふと、「田舎の学問より京の昼寝」というフレーズが浮かんだ。「田舎でひとり勉強するより、京都でボーっと昼寝しているほうが色んなものが身につくよ」といった意味だと解釈している。撮影所はここでいう「京」のような場所だったのではないか。う〜ん、この論理展開、ちょっと強引で、飛躍ありすぎ、生煮えの感無きにしも非ずだが、もう少し時間をかけて考えてみたい。
ということで、今日は、『蒲田行進曲』のタイトルクレジットでお茶を濁そう。