2ペンスの希望

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ブツとしての映画

映画とは何か?
スクリーンに投影されたり、モニター画面に映し出されたソフトこそが映画だという観点に立てば、厳密には、フィルム=映画でもDVD、ビデオ=映画でもない。
メディアは何であれ、ソフトとはそういうものなのだろう。しかし何だかしっくりこない。
昔人間としては、目に見えるもの・手に触れるもの・重量があるものとしての映画という思いがぬぐえない。これまでの仕事の経験でいえば、ネガ原版、ビデオのマスターテープがずっと命だった。手触り・手ごたえ・重さ、つまり、ブツとしての映画でなければ納得できなかった。ずっと。
本を読むのに、電子出版、PCやスマホで読むのでは物足りないのと同じだ。
新刊本は、印刷インクのにおいをかぎ、紙の感触を感じながらページをめくる。古本は、埃をかぶり、陽に焼けて茶色くなった紙、傍線が引かれ、折り返され、時に珈琲のシミが残る。棚に眠ったままのそれを、何十年かぶりに手に取ると、そこに時間を越えた言葉が刻印されてるもの、いまだにそれが本だと、かたくなに思っている。
電子出版世代にも、それなりの体験的感覚(物神性?)が蓄積されていくのだろうが、残念ながら当管理人にとって、デジタルデータ化されたものは、いかにもひ弱で不確実、軽くて薄くて無味無臭で、興醒めだ。
映画の世界からもフィルムが消えていきつつある。大手が進めるDCPデジタルシネマパッケージは、従来のフィルム上映ではなく、ネットワーク配信されたデータをデジタル上映するシステムだ。フィルムを焼くコストも、配給配送するコストも不要になる。
慶賀の至りだというべきなのだろうが、映画の多様性が失われていくことは、何かが痩せていくことだ。
そういえば、小学校時代から大学時代まで身近に接してきた謄写版印刷(ガリ版といった)はどこへ行ってしまったのだろうか。(だいぶ前だが、東南アジア・ミヤンマーだったかラオスだったか、村の小学校や山岳ゲリラの間で元気に現役、重宝されているという記事を読んだことをふと思い出した。)
ブツとしての映画の手ごたえ、ガリ版映画の手触りを手放したくない。