2ペンスの希望

映画言論活動中です

拙管理人が全幅の信頼を置く映画監督は残念ながらそんなに多くはない。そんなお一人から檄を飛ばされた。永らく映画を撮っていないので、ご当人はア「監督」と自称するが、得がたいホンマモンだと慕ってきた。
檄は二つ。ひとつは、「状況に振り回されて右往左往するのではなく、これまでの映画史を書き換えるぐらいのつもりでやれ」というもの。これまでの公認された映画史だけを前提にすると視野狭窄に陥るぞ。知られていないもの、見過ごしてきたものをも繰り込んだ新しい映画史を構想しながら歩め、映画の歴史はもっと深くて豊かなのに、そのことを指摘する人があまりにも少なすぎる、そういうのだ。それなりに目配せしてきたつもりだが、褌を締めなおしたい。(いや反対に、もっとだらりとゆるフンで、包容力・胃袋大きく!というべきか。)
もうひとつは、吉本隆明さんの『言語にとって美とはなにか』に倣っていうなら、「『映像にとって美とはなにか』をあかせ」ということ。そもそも「映画の美」とは何なのか、
その中身、内実、よってきたるところの原理論をやれ、ということだ。そのとおりだろう。
かつては盛んに論議された、哲学や美学、原理論だが今はなおざりにされている。
だれもそんな面倒くさいことはしたくない。わかったつもりで個々の出来不出来や流行り廃りを云々することに忙しい。その方が、軽いし楽しい。原理論を問うことは、重いし楽しくもない。学問の世界でも(これは確証なしにいうのだが)、以前は多少なりとも幅を利かせていた「哲学」や「美学」は、いまや辺境になっている。
良かった悪かった、上手かった下手だった、という表層の感想・印象批評は賑やかだが、そもそも「演技」とは何なのか、「演出」とは何なのか、原理を問う「演技論」「演出論」は見かけなくなった、とア監督は云う。
全くもってラジカルな正論だ。
エネルギーは要るが、心して歩みたい。