2ペンスの希望

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みんな

映画って誰のものなのだろう。
複数の作り手たち(スタッフ)が関わって、ギリギリとひとつの表現に収斂し、締め上げ練り上げられた(或いは、意味不明・未解決なままゴロンと投げ出され、観客の感受にゆだねられた)表現から、多義的な理解(受容)が導き出される――
その魅力こそ映画の醍醐味だろう。
スタッフ編成を含め、全体を貫くのは、プロデューサーや監督なので彼らがクレジットされるが、いっそ「観客」も含め、みんなのものだと言い切ってしまってもいいのではないかと改めて思う。
編集マンである米ウォルタ・ーマーチは、
「巧みに構成された映画には多義性がある」と言い、
日本の文学者・吉田健一が、
「言葉の用ゐ方が的確で微妙であればある程その意味は幾通りにもなる」と書いていることは、以前にも触れた。【2012年2月26日付《ご近所大長征》note3シンプル参照】
作り手から観客まで、関わったすべての人の「共同作業」によって映画ははじめて映画になる、比喩やおためごかしではなく、その包容力・キャパシティこそが映画の特質なのだと云いたくなってくる。
もっとも、「みんな」という言葉には、いかがわしさや無責任がまとわりつく。だからこそ、人生幸朗・行恵幸子の漫才ではないが、「責任者出て来ぉい」という時、責任を取るのが「監督」ということなのだろう。
不行き届きは、監督責任‥‥親父ギャグっぽくて 御免。(^^ゞ