2ペンスの希望

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今となっては時効だから言うが、映画の世界に入った時からずっと、エラソーに監督(演出)としてやってきた。誰かの下について、仕事を教わるとか、弟子になるという助監督経験、下積み時代は一切なかった。
学校を出て、ニュース映画(劇場で常時ニュース映画を上映していたのだ)の会社にもぐりこんだ当初から、“演出が出来ます”という触れ込みで仕事を始めた。学生時代にアルバイトで経験したPR映画の現場と、何本か自主制作映画(16mm)を作った経験があったので、全くの嘘というわけではなかったが、銭の取れる演出が出来る自信は全くなかった。けれども、誰かについて学ぶ気はなかった。自力でやって行きたいと鼻っ柱ばっかり強かった。浴びるように見た映画だけが先生だった。
それでも、四十年余りの職業人生の中で、師と呼びたい先輩が三人いる。学生時代アルバイトで出会ったF:二口信一さんは、初めて出会ったプロの映画屋だった。子役時代から映画の世界で育ち、今は「夏に売り出す新型電気冷蔵庫のPR映画」の「監督」をしていた。朝から晩までどうしたら面白くなるかばかりを考えていた。骨の髄まで映画が好きだった。正直、「たかがPR映画」と馬鹿にしていた生意気盛りの学生は、好きな事を仕事にする人間の一途さ(いちずさ)、その迫力を教えられた。O:小笠原基生さんとH:播磨章さんは、ともにニュース映画の会社で出会った。Oさんは、企画書とタイトルの名人だった。ピンポイントで急所を押えた題名は、端正で華麗だった。いつ会っても飄々ニコニコと仕事をしていた。上手く云えないが、行儀が悪いのは駄目だよ、下品になってはいけないよ、と背中で教えられた。Hさんからは、スタッフ論を叩き込まれた。仕事で付いたことはなかったが、事あるごとに、一人でするのは仕事じゃない、スタッフを信じよスタッフにまかせよ、と繰り返された。スタッフはヒエラルキーやピラミッドじゃない、チームなんだ。そういわれ続けた。肩に力が入って目ばかり血走らせていた若僧にはこたえた。「吸う息吐く息」という言葉を教えられたのもHさんだった。「息を吸ってばかりでは窒息するゼ、たまにゃあ吐かなくっちゃあ‥」とからかわれた声が今も耳の底に残る。
三人とも鬼籍に入ってもういない。仕事をした会社もすでにない。
いつまでたっても師にはなれそうにもないが、志は受け継ぎたい、そう思っている。