2ペンスの希望

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論争つづき

昨日の《目隠しされた馬》論争 興味深いのでもう少し続ける。お付き合い願いたい。
三木茂は1905年・明治38年生れ・劇映画の世界から記録映画に移って活動したカメラマンだ。彼の反論が面白い。雑誌「文化映画研究」1940年3月号から引用してみる。

劇映画から文化映画に入って見て先ず第一番に驚かされた事は、演出者には誰でもなれると云う事でした。
 この事は私の持っていた演出者という今迄の概念を根本からくつがえしてくれました。
 実に経験があろうが、無かろうが、資格があろうが無かろうが、そんな事は問題ではないのです。とにかく理屈を云える人なら誰でも演出者になれると云うのがこの世界での現状の様です。
 敢て私が亀井君のルーペ説を肯定するかわり、そんな演出者の存在する事を指摘したのは、そんな演出者によってカメラマンのセンスを論じ、カメラマンの技術を論じられては堪らんと思ったからです。
  黙っていれば云いかねないのが現在の演出家諸君の態度である事を知っているからであります。私はカメラマンとして批判されることに対しては一向かまわない と思い、悪いところがあったらドシドシ云って貰いたいと思っているものであるが、それは言い得る人にだけ云って貰いたいと思う。映画演出の教養の低い、そ してルーペの何たるやも知らない演出者によってカメラマンルーペ説を鵜呑みにされる事は、現在の一群の演出者の程度では、断じて認める事は出来ない。
  成る程カメラマンはルーペから物を眺めようとする、そしてルーペから物を云おうとするがルーペから物を覗け、ルーペから物を眺めることが出来るまでには少 なくとも六年から十年と云う年月の修行をしなければルーペが覗けないのだと云うことを知ってから、カメラマンルーペ説を云々して貰いたいものであります。
 目かくしをされた馬の様になる迄には並々ならぬ苦労があるのである。理屈をいったからと云ってカメラマンにさせて貰ったものはカメラマンにして一人もいないのである
 だからこそーーーと演出の諸君は云うかも知れない。カメラマンがカメラの側から物を見たがる原因がそこにあるのだとーーーしかしカメラで物を見せるという技術はカメラのルーペを心得なくては出来ないと云う事を一体君達は知っているのであろうか。
 私は誠に失礼な言い方であるが、カメラマンのセンスを論じ、カメラマンの知的教養を要求する演出者のうち、どれだけが本当に物を云える資格がある人なのかと時々疑問に思う事があるのです。

 最後に亀井君のルーペ説に対して、私は全的にカメラマンのルーペ説を肯定する代わり、一部の文化映画演出家諸君の自覚を切に希望する。

文化映画の演出者諸君に対して私の失礼な言い分は、一部・・・一部にしてはあまりにも多すぎる・・・一部の人達に適当するものであることを理解されたい。
引用は以上だが、
その後の論争の経緯・顛末については、文字通りのタイトルを掲げる『目隠しされた馬・撮影師・辻智彦のブログ』に詳しい。http://ameblo.jp/cinematic-neo/entry-10380296904.html「ルーペ論争」考その1〜7(2009.11.〜2010.5.)辻カメラマンは、三木茂さんの孫弟子筋にあたる方のようだ。【上記、亀井・三木論争の資料再録は、辻さんのブログからの無断引用。末尾ながら記して謝意を表したい。】

しかし、辻さんも書いておられるが、
70年経った今も事態は殆ど変わっていないどころか、もっと退化・鈍化しているようなきがしてくる、と暗澹としてくる。