2ペンスの希望

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不純度

今日は、映画の不純度の話。

映画には、思わず知らず映ってしまうものがある カメラを向けること、フレームを切る取ることで、作為しないものまで写ってしまう。とりわけ、撮影所が減り、セット撮影ではなく、ロケーション撮影が増えるにつれて、その傾向は顕著になった。分かりやすい例は時代劇の場合だ。電線や電柱が写り込まない様に、美術部の下っ端は、電柱隠しの為に樹木の皮を持参し、電柱に巻きつけて木に見せる工夫をしてきた。それでも山腹に鉄塔が写り込んでしまって困ったという話も聞く。もっとも最近は、撮影後に写り込んだ余計なものはCGで消してしまう消し込み手法も可能になっている。が‥お金と手間がしっかり掛かる。
いずれにしろ、
絵画にしろ、文学にしろ、描かないものは絶対に入り込まないが、映画は夾雑物(きょうざつぶつ)に溢れている。不純度が高い。良くも悪くもそれが特長だ
それを一方的なマイナス・排除すべきものとして捉えるのではなく写り込むものを取り込む姿勢もまた、アリではないか。積極的にそう考えてみたい。時代劇の電柱は興ざめだが‥。ロケ現場には、風とか空気とか 気とか、作り手たちの制御不能なものが流れている。こうした現実・現場・ナマを追い風する映画作りのすすめだ。ただし、間違って貰っては困る。妥協の産物に成り下がることについては、御免こうむる。お金が無いから、時間が無いから、‥‥ここいらあたりで手を打とうというのでは情けない。(拙ブロガーが、仲間うちに閉じた自主映画ごっこを嫌うのは、いつ何処にでも言訳が入り込む薄気味の悪さゆえだ。)銭の取れるプロとして、智恵を絞り、最大限の工夫を施して、現実・現場・ナマを味方につけること、これである。
他の表現物に比べて 不純度が高い。その分、映画はふくよかでゆたかにもなりうる。余剰過剰、はみだし、余分余計なものの混入=不純度大、それこそ映画の強みのひとつなのだと心得る
これは、ドラマのドキュメンタリー度にも通じる特性だ。