2ペンスの希望

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相性

映画にも相性がある。どうしても最後まで観られない映画がある。K瀬N美さんやK野Tしさんの映画がそうだ。世界の映画祭で受賞しようと高名な評論家先生が褒めようと駄目なものは駄目なのだ。きっと賞を受けたりするのだから、悪い映画でもないのだろうが、何処が良いのかサッパリ分らないのだ。映画の良し悪しとは別として、生理的に受け付けないのである。残念なことだが致し方ない。肌が合わないのだろう。どんなに誘われても食指が動かない美人がいるのと同じこと、なんて書くと誰かに怒られそうだが‥。
ここからは、独断と偏見で書く。
万人が拍手喝さいする名作は1%。誰が見ても“こりゃ駄目だ”噴飯モノの失敗作が1%。あとの98%の映画は、短所も長所もある、観る人によって、その時の状況コンディションによって、どうとでも評価出来る。それほどに包容力と言うかキャパシティがあるのが映画なのだ。したがって自分のこの目で見るしかない。
何度か書いてきたが、映画は“表現”である以前に“体験”なのだ。作り手にとっても観る人にとってもそうなのだ。もうひとつ言えば、映画ほど“不純度”の高い表現物は無いと云える。諸般の事情で「撮影所」が無くなり、ロケセットが当たり前になってからは特にそうだ。意図せざるものが写りこんでしまう。独りで作る映画も無いわけではないが、多くの映画が共同作業で作られるゆえ、個人の思い・設計が貫徹されるより、複数の人々の思いと技が掛け算になったり、割り算になって反映する。
不純度=多様性
に満ちている。うまく云えそうにないが、それが個々の映画の匂いや体質となって「相性」を生むのだろう。