2ペンスの希望

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取り扱い注意

引き続き、別の角度からドキュメンタリーのドラマ化について考えてみたい。
ドラマのドキュメンタリー化の代表例が『裸の島』なら、
ドキュメンタリーのドラマ化と聞いて一番に浮かぶのは、1965年公開の市川崑監督作品長編記録映画『東京オリンピックだ。拙ブログ管理人は、1948年生まれ、東京オリンピックは生意気盛りの高校生時代。あの市川崑が総監督すると聞いてどんな映画が出来上がるのか愉しみだった。見たのは、大阪・阿倍野橋の近映大劇場だったと記憶している。もちろん劇映画と記録映画の違いに自覚的・意識的だったわけではない。ただただ、モダンでスタイリッシュ、練られたサイズとアングルで繰り広げられる映像構成に、人間の肉体のしなやかさを魅せつけられ堪能した。時のオリンピック担当大臣河野一郎が「記録性をまったく無視したひどい映画」と発言し、市川崑が「オリンピックを人間の営みの1つとして描いたことで、記録映画じゃないと言われるのだろうが、あれは、記録映画以外の何ものでもない。『東京オリンピック』は映画。スポーツ解説じゃないんだから、あくまで映画として評価してほしい」と応じた話が残っている。
100メートル走のハイスピード撮影や、聖火リレーの追加撮影(再現映像?やらせ?)などなど、作り者、表現としての記録映像満載だ。
ありのまま、事実そのまま、加工なしなんてそもそもありえないことを強く植えつけたことは確かだ。
『表現としての映画』 だからこそ、ドキュメンタリーは、取り扱い注意なのであり、その「品」と「質」が厳しく問われるのだ。

今日は久しぶりにオマケを付ける。
東京オリンピック』のエンディングタイトル。

アイウエオ順に並んだスタッフタイトルは圧巻のボリューム。