2ペンスの希望

映画言論活動中です

未だ見ぬアナタ

未だ見ぬアナタと出会いたい、という欲望。それがすべての創作・表現の原動力なのだろう。
とりわけ、映画は、時代や社会、国境や世代を超えて受け入れられるだけのキャパシティ(容量・可能性・素地)を持っている
もっとも、それは、「文字・言葉と違い、映像は誰にでも理解される」という俗説ゆえではない。不純物をも含む映画の猥雑さ(=映画が、人間の不可解さ・奥深さと同等の幅と奥行きを持つ)ゆえなのだ。拙管理人はそう考えている。
日本の映画は、間違いなく第一期黄金時代を超えてしまった。衰退の一途を辿っている。――大方の見方はそんなところだろう。しかし、落ちぶれた「映画」の世界に、それでも新たに魅惑され、飛び込んでくる若い世代(遅れてきた世代?)が、確実に台頭してくる。その時、拙管理人も含め、先行するロートル達が、冷やかしたり,冷笑したりして、足を引っ張るようなことをしてはならない。新しい映画。それは、これまでの「産業としての映画」でも、「作家としての映画」でもないものだろう。願わくば「みんなの映画」であって欲しいところだが‥‥コレはまた別の話。別に書く。

忌避意識が差別を生む。未だ見ぬアナタと出会うことをやめたとき、停滞と退廃が生れる。
未だ見ぬアナタ、それは言い換えれば、もうひとりの自分に出会いたいと願うことなのかも知れない。新しい自分に出会う意欲を失ったとき、生きながらの死が始まるのかも。
今日は、少々リリカルに過ぎた。