2ペンスの希望

映画言論活動中です

多義性再論

先日、ブログを愛読してくれているという先輩映画人から、こんなことをいわれた。
映画の多義性というオマエさんの主張・理屈は分かった。けど、それを実現する術・方策が何なのかを語れ、と。
うーむ、これは難問だ。とっさに、それが分かれば世話は無い、誰も苦労しやしない、と応えた。先輩は、そうだよな、と頷いてくれたが、ちょっと真剣に考えてみたい。
ハッキリしていることがひとつだけある。
ギリギリと一義性をトコトン極めんとしながら、その一方で、その一義性をどこまでも疑うこと、もっと別の光の当て方がないか、違う方法論・展開・解釈は成り立たないか、と斜めにしたり、裏返したりしながら、ためつすがめつしてみることだ。
残念ながら、多義性を求めることが、一義性に陥らないこと、反・一義性という否定形・アンチの形でしか語れないもどかしいはある。が‥今の拙の力量ではここまで。いかんともしがたい。

明日からしばらくは、シリーズで「新しい日本の映画」のありかたについて、幾つかテーゼのようなものを挙げてみる。例によって、妄想に近く、網羅的・体系的ではない。走り書き・殴り書きのたぐいだが、ご愛読戴ければ有り難い。
目指すのは、
明晰にして多義的(多義的にして明晰)
複雑にしてシンプル(シンプルにして複雑)
そんな新しい映画のための「準備体操(助走・筋トレ)」。

従って、生ける屍、居丈高な大人、行儀の悪い人はお断りだ。