2ペンスの希望

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「表現」の「役割」

「表現」というものはすべて,「現実」を「壊す」ために,(壊すというのが言いすぎなら)「突き動かす」ためにつくられるのではないか、岡田利規さんという劇作家の文章を読んでそんなことを考えた。読んだのは「パブリッシャーズ・レビュー」というPR紙2012年夏号No.161掲載の文章『個人的な新鮮』。
【以下 要約シテミル】
岡田さんは「芝居」を作っている。なのに、長い間、つくりごとなんて「嘘っぱち」で「馬鹿馬鹿しい」と思ってきた。信じていたのはつくりごとではなくて、もっと本当のことのほうだった。そう前置きした上で、最近それが変わってきた、と書く。「ドラマ」や「キャラクター」をつくることの「意味」「はたらき」が分かった、というのだ。つくりごとのドラマを現実の中に置くことで生じる『緊張関係』―それが、つくりごとの「はたらき」「役割」だと岡田さんは書いた。
成る程な、と思って読んだ。
【‥ト、ココカラハ拙管理人の感想=連想】
確かにそう。
「現実」は、いつだってままならない。常に何かが「足りなく」て、何かが「過剰」だ。そんな「現実」に一石を投じたい、「表現」は現実に対する「異議申し立て」であり、こうありたいという「理想の提示」。でなけりゃあ、誰が好き好んで「腹の足しにもならぬ」「余計なもの」に骨身を削ったり、大金を投じたりするものか
再び、岡田さんの文章に戻る。末尾にこうあった。
【以下、引用】
「演劇をアップデートすることへの関心というのが私(岡田)はだいぶ薄れてきている。今の私が興味があるのは、演劇の古さを現代化することだ。ふたつはあまり違わないように見えるかもしれないけれど、全然別のことだ。現在の社会のあり方に対応した演劇のあり方をさぐることと、演劇が何千年も前から持ってる力を、私の生きる現在の社会に行使させようとすることとは、全然違う。」「現実」を追認し、なぞるのではなく、「表現」の「原始の力」を「現代化」(「復権」?)させようという「問題提起」だ。
「映画」もまた然り。通説・歴史は書き換えられねばならない。問題は、瀕死の日本映画界の中で、いつ・だれが手をつけるか、だ。

ふー、今日は、やけにカッコをつけた文章になってしまった。 反省。
生煮え気味なのは、現在進行形というブログの形式と拙の力量不足ゆえ。
これもまたやむにやまれぬ「表現」。込めたつもりの微妙なニュアンスが伝われば
嬉しい!