2ペンスの希望

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誰一人

作りたいから作るの対極、作れそうだから作る、お座敷が掛かったから、お呼びがあったから作る という映画がある。誰もがそれぞれの思惑で、部分的に参加する、部分的に責任をもつ。結果、だれも全面的な責任を負わない(問われない)映画が出来上がる。公然と、あるいは、こそこそもごもごと言訳ばかりが横行することになる。
誰一人、本気じゃない、必死にならない、切実さのかけらもない。そんな映画は哀しい。それでも、祭り・ゴッコは、楽しい。お金にもなる。だから余計に厄介なのだ。
そんな「映画」にお客さんが心打たれる筈がない。たまに(よくか)「お〜い、誰か途中で止めてやれよ」と言いたくなる映画に出くわすことがある。なのに、中途半端に持ち上げるファンと関係者づらした事情通がいる。彼らの責任は重大だ。まっ、どっちもどっちか。垣根が低くなるとともに、眼力も落ちた、というのでは情けない。んっ、今日はいささか血圧が上ってしまった。何故かは書かない。が、我が身も含めて反省、自省、自戒。
映画なんて、そもそもが粗製濫造。作れそうだから作る、それでいいじゃないかという意見もあるかもしれない。しかし、誰一人本気に愛さない児がいたなら、それこそ不幸の極みじゃないか。