2ペンスの希望

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教育的エネルギー

他の表現物に比べると、映画の教育的エネルギーは格段に高い。だからこそなのだろうが、多くの国多くの時代でプロパガンダに利用されてきた。かつてレーニンは「すべての芸術の中で、もっとも重要なものは映画である」と語り、「映画は大衆を教育するための最も有力な道具の一つである」との考えから1919年世界で最初の国立映画学校(=今の「全ロシア国立映画大学(VGIK:All-Russian State Institute for Cinema)」)を作った。そう書いた映画の本を大昔読んだことがある。
そんなことを思い出していたら、出来は少々ガタピシでも、映画の教育的エネルギーを踏まえるなら、上映・公開にはそれなりの意味があるのかもしれないな、と考え直し始めた。正直な話、映画を見ていて、こんな生煮えの出来損ない、見せてもしゃあない、観たくもない、と思うときがある。が、ドキュメンタリーとりわけ実在の人物を取り上げた映画の場合、監督さんや製作者の意図を超えて、実在の人物のありようが垣間見えてくるものだ。人間の息遣い、匂い、佇まいに心動かされる。心打たれる。時には監督の演出や構成が邪魔になって、お前はどけよ、とも言いたくなるとしても、だ。
今年二月に亡くなったドキュメンタリスト布川徹郎さんは口癖のようにこういっていた。「要するに、状況・対象は、カメラを持った記録・報道者なんぞを超えている存在なのだ」。その通り。啓発も教条も不用。「映画の教育的エネルギー」とは、「そこに人がいて、生きているということをゴロンと投げ出して見せること」なのだ。そう思う。
映画の懐の深さ・映画の多義性の証左でもあろう。