2ペンスの希望

映画言論活動中です

読む力・聞く力+センス

資本と技術の進化に振り回されるのは、いい加減やめにしたい。
フィルム信仰者、映画館至上主義者の皆さんには申し訳ないが、
時計の針は逆戻りしない。
覚悟の上で、技術革新の成果を取り込み、借り物ではない自前の戦略で来るべき未来を準備するときだ。といっても、こんなことまで出来る、こんな新しいこと・こんなすごいことが‥という「新しがりや」になれといっているのではサラサラない。むしろ正反対。
新しいものは徹底的に疑ってかかるべし、それでも良いところは良いと認めるべし、そんな当たり前の包容力を持とうじゃないかといいたい。
貧乏が工夫を生むことは確かだ。飽食は怠惰を呼ぶ。それでも、昔に戻るわけにはいかない。とするなら、前に進むしかない。後を大事に振り返りながら前進する。後ずさりしながら、未来に向かう。ためらってはいけない。そう思わないか。
そこで考えてみたいのは、
撮れてしまうこと、写ってしまうことの凄さ、怖さ、恐ろしさについてだ。
昔は、撮れなかった。写らなかった。コストの上でも、技術の上でも。それが撮れるようになってしまった。デジタル時代の功と罪。これを自覚的に繰り込んだ新しい表現思想、演出論が求められている。撮れてしまうこと、写ってしまうこととどう向き合うのか、撮れ過ぎること、写り過ぎることをどう生かすか、どう拒むか、
たとえば、人間の目。目はまわりのすべてを映しとる。その中であるものだけを選び出し、焦点をあてフォーカシングする。あとはぼかして意識の外へ追いやる。耳も同じ。人間の耳は、あらゆる音をキャッチしながら、需要な音、聞きたい音だけを聞き取る。ためしにマイクでとった音と比べてみればよく分かる。あたりがどれだけの雑音ノイズに満ちているか、その中で人間の耳がいかに選択的に音を聞き取っているか。
デジタル時代に求められるひとつは、選ぶこと、そぎ落とすことではないだろうか。
こんな感触にとらわれている。まだまだまったくの仮説にすぎないが‥。
最近思うことは二つ。
一つ目。作る力・書く力よりも、読む力・聞く力が大事。
二つ目。知識や情報を求めるより、センスを磨く方が重要。
いずれも難しいし、近道もない。けど、豊かさの中でサボってきたツケが回ってきたのだ。そう覚悟するしかない。若い人には迷惑千万な話だが付き合ってもらうしかない。及ばずながら、ロートルとして出来るだけのことはするつもりでいる。