2ペンスの希望

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照明と録音

どの世界にも職人が少なくなった、という嘆きはよく聞く。
調理場に自動皮剥き機が普及すると、下ごしらえ・皮剥き職人はお払い箱になる。
便利だし省力化・コストダウンにもつながる。店も客も喜ぶ。イマドキの言葉で言えば、WIN-WINの関係ということになる。しかしそうだろうか。
映画の世界でも事情は同じようなものだ。撮影機材の進化が現場スタッフの少人数化を促す。少数精鋭といえば聞こえがいいが、実態は多機能化による過重労働、職能の溶解だ。とりわけ顕著なのが、照明マンと録音マンの不在だ。
フィルムの時代、感度が低くて照明がなければ撮影は不可能だった。劇映画の現場はもちろん、記録映画・ドキュメンタリーにも照明マンは不可欠だった。百キロ(ワット)の照明を使うような場合、電力会社に交渉して臨時に電源を引いたり電源車を準備した。照明スタッフもチーフ技師さんをはじめ、十人を超えることもあった。(照明十キロ当たり一人だったと記憶している)。そうしないと写らなかったのだ。
デジタルとなった今は違う。
肉眼では真っ暗にしか見えないような状態でも写ってしまうようになった。ライティングも自然光中心主義が主流だ。表現としての光と影の世界は痩せたように見える。かつて照明マンは、どこに行ってもその世界がどんな光と影、色彩によって形作られているのかを気にかけていた。どう光があたり、どう反射し、どう色が輝くのか、それがどんな空気を作りどんな印象(効果)をもたらすのかを熟知していた。録音マンも同じだ。聞こえなくても「そこにある」音を掴んでいた。それを細かく積み上げて、音の密度を設計した。そのためにはどこにマイクを仕込み、どこにマイクを向ければいいかを心得、段取り、マイクブーム(竿)を振った。
写る・写ってしまうことで、録れる・録れてしまうことで、失われていくものがあるのだ。
表現としての照明・表現としての録音が枯れてしまうのは致し方ないことなのだろうか。
目覚ましい技術の進化、WIN−WINの陰で、目に見えにくい技術が置き去りにされていくことを忘れてはいけない。