2ペンスの希望

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ササラ型とタコツボ型(根を共有する)

社会的な題材を描こうと、個人的な素材に焦点をあわせようと、最近の(記録)映画はどれも閉じてしまっているように思う。それぞれ当人たちにとってはのっぴきならない課題なのだろうが、その切実さが地続きのものとして見る人の元に届かないのだ。心は動かされてもどこか他人事、自分の日常とは別世界の出来事に見えてしまう。感受能力の劣化もあろうが、そう受け取られることを認めてしまう作り手のひ弱さを感じる。
他とは違う何か特殊なこと・自分だけにかけがえのない特別なこととして描かれすぎている、そのためではなかろうか。かといって、かつてよく見られた教条的・観念的なアジテーションが良いというわけでは全くない。青筋立てて「べき」や「ねば」を押し付けられてはかなわない。しかし、
自分は自分、人は人、押し付けませんよ、よかったら見て下さい、というありようからは、奥ゆかしさ・謙虚さより体温の低さ・つめたさ・よそよそしさを感じてしまうのも事実だ。
今こそ圧倒的な映像の力で観る人を鷲づかみ・釘付けにしてしまう暴力的な映画が見てみたい。有無を言わさぬ強引さが欲しい。

と、ここまで書いて唐突だが、かの懐かしの丸山真男『日本の思想』【1961年11月第一刷 岩波新書435】を思い出した。半世紀以上も前に書かれた本なので、若い人は知らないことだろう。丸山は「社会と文化の型をササラ型とタコツボ型の二つにわけて」考えようとした。「ササラは竹の先を細かくいくつにも割ったもの、タコツボはそれぞれ孤立したタコツボが並列している型。近代日本の学問や文化は根を共有するササラ型ではなく、共通のカルチュアやインテリジェンスで結ばれていないタコツボ型だ」と説いた。「それぞれが一定の仲間集団を形成し、それぞれの仲間集団が一つ一つタコツボになっている。」丸山はさらに「過度の専門化、あまりに個別的な分化の弊害」を論じた。加えて「組織における隠語の発生と偏見の沈澱」を指摘し、「それぞれ精神の奥底に少数者意識あるいは被害者意識を持っている」ことを憂えた。52年前「国中被害者ばかりで加害者はどこにもいないという奇妙なこと」と書いた丸山の指摘の鋭さに驚く。
加害者であることを引き受ける映画の登場を望む