2ペンスの希望

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ジャック・タチの性質

不勉強で、最近まで知らなかった。
JLGの映画『勝手にしやがれ』の原題は、『A BOUT DE SOUFLE』仏語で「息切れ」を意味するそうだ。『勝手にしやがれ』と名付けたのは秦早穂子さんだった。その昔「新外映」という会社で欧州映画の輸入配給を手掛けてきた草分けのお一人だ。彼女が居なければフランス・ヌーヴェルヴァーグのブームは全く異なった展開になっていた筈だ。
そんな秦さんの半自伝小説『影の部分』を読んだ。その一節にこんなのを見つけた。
ジャック・タチが自身の映画とR.ブレッソンの違いについて語った箇所だ。
ブレッソンは追求し追求します。そこに真実を発見しようとするのです。悲劇的美といってもいい。ぼく(J.タチ=引用者 註)は追求しません。追求するのをむしろ避けるのです。人間が引き起こすことをじっと見ていると、そこに喜劇を発見するともいえます
作り手の性質(たち)の差だろうか。フィクションとノンフィクションの方法論の違いとも、「省略」と「観察」というアプローチの違いともいえそうだ。いずれも優劣を言っている訳ではない。  こんなくだりもある。
なぜ?どうして?そしてどうなったの?という考え方はやめましょう。野良犬が電柱に立ち小便し、そのあとに続いて私(J.タチ=引用者 註)の愛犬もおしっこをする。ゴミ箱をひっくり返す。ただ、それだけのこと。そこに理屈はないでしょう
ひたすら観察し観察し、観察する。そこに押しつけがましさのないJ.タチの映画の味が生まれる。ただ、起承転結が無い分、下手をすると退屈になりかねない。一見無造作、不器用に見えてくるが、実は、よく考え抜かれている。曖昧さを曖昧さのままにゴロンと投げ出すことで、人間のおかしさ、かなしさ、あたたかさが浮かび上がってくる。批判もないし、加担もない。
距離のとり方の絶妙さ。学ぶところ大だ。