2ペンスの希望

映画言論活動中です

南部鉄瓶

今日は二つの詩を挙げてみる。

「鉄瓶に寄せる歌」
お前は至って頑固で、無口であるが,真っ赤な炭火で尻を温められると、唄を歌い出す。ああ、その唄を聞きながら、厳しい冬の夜を過ごしたこと、幾歳だろう。だが、時代は更に厳しさを加えて来た。俺の茶の間にも戦争の騒音が聞こえて来た。
(略)
さあ、わが愛する南部鉄瓶よ。さよなら。行け!あの真赤に燃ゆる溶鉱炉の中へ!そして新しく溶かされ、叩き直されて、われらの軍艦のため、不壊の鋼鉄版となれ!

「鉄瓶の歌」
まっ黒で、無愛想で、頑固なやつ、
古道具屋に売れば、
二束三文の値うちしかないのに
みんなに可愛がられる南部生まれの鉄瓶よ。
(略)
まっ赤な火に尻をあぶられて、
沸騰する湯気の中から
木々をゆすぶる木枯らしの中から
ぼくらの長い冬の夜ばなしの中から
やがて春がやってくる

前者は、戦時中の金属献納(供出)を謳った詩、後者は戦後のもの。書いたのはともに同じ壺井繁治というプロレタリア詩人だ。(『二十四の瞳壺井栄の旦那という方が分かりやすいかも。)
吉本隆明は、『抒情の論理』(未来社1959年刊)でこの詩のありようを批判している。
わたしの関心は、この二つの詩が、意識的にか無意識的にか、おなじ発想でかかれ、その間に戦争がはさまっているという事実だ。この事実をもとにして、二つの詩のちがいをあげれば、一方は、擬ファシズム的煽動に終わり、一方は、擬民主主義的情緒におわっていることだけだ。わたしは詩人というものが、こういうものなら、第一に感ずるのは、羞恥であり、屈辱であり、絶望である。戦争体験を主体的にどううけとめたか、という蓄積感と内部的格闘のあとがないのだ。(略)もしこういう詩人が、民主主義的であるなら、第一に感ずるのは、真暗な日本人民の運命である。
青筋立てて怒っている。「日本人民」という言葉がなんとも時代的だ。半世紀を経て読み返してみると、この詩かなり古くさい。比喩の薄っぺら、詩想の凡庸さは今では明らか。二作ともメッキが剥げた二級品だ。
批判されるべきは思想的変節ではない。
それより思うのは、なまじのプロというのは、厄介である意味恐ろしいということだ。時代が変わろうと何が起ころうと同じような感性で同じような歌をうたってしまう鈍重さ。いかようにでも料理してしまう料理人の性(さが)だ。
内部的格闘」もなしに、自然に腕が動いてしまう職人は、怖い。