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「神隠しされた街」

今日も詩の話題。
若松丈太郎さんという方の詩「神隠しされた街」。未知だった。若い友人が教えてくれた。長いが全文を引く。

神隠しされた街」若松丈太郎【『悲歌』・連詩「かなしみの土地」より】

四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
サッカーゲームが終わって競技場から立ち去ったのではない
人びとの暮らしがひとつの都市からそっくり消えたのだ
ラジオで避難警報があって
「三日分の食料を準備してください」
多くの人は三日たてば帰れると思って
ちいさな手提げ袋をもって
なかには仔猫だけを抱いた老婆も
入院加療中の病人も
千百台のバスに乗って
四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
ごっこする子どもたちの歓声が
隣人との垣根ごしのあいさつが
郵便配達夫の自転車のベル音が
ボルシチを煮るにおいが
家々の窓の夜のあかりが
人びとの暮らしが
地図のうえからプリピャチ市が消えた
チェルノブイリ事故発生四十時間後のことである
千百台のバスに乗って
プリピャチ市民が二時間のあいだにちりぢりに
近隣三村あわせて四万九千人が消えた
四万九千人といえば
私の住む原町市の人口にひとしい
さらに
原子力発電所中心半径三〇㎞ゾーンは危険地帯とされ
十一日目の五月六日から三日のあいだに九万二千人が
あわせて約十五万人
人びとは一〇〇㎞や一五〇㎞先の農村にちりぢりに消えた
半径三〇㎞ゾーンといえば
東京電力福島原子力発電所を中心に据えると
双葉町 大熊町
富岡町 楢葉町
浪江町 広野町
川内村 都路村 葛尾村
小高町 いわき市北部
そして私の住む原町市がふくまれる
こちらもあわせて約十五万人
私たちが消えるべき先はどこか
私たちはどこに姿を消せばいいのか
事故六年のちに避難命令が出た村さえもある
事故八年のちの旧プリピャチ市に
私たちは入った
亀裂がはいったペーヴメントの
亀裂をひろげて雑草がたけだけしい
ツバメが飛んでいる
ハトが胸をふくらませている
チョウが草花に羽をやすめている
ハエがおちつきなく動いている
蚊柱が回転している
街路樹の葉が風に身をゆだねている
それなのに
人声のしない都市
人の歩いていない都市
四万五千の人びとがかくれんぼしている都市
鬼の私は捜しまわる
幼稚園のホールに投げ捨てられた玩具
台所のこんろにかけられたシチュー鍋
オフィスの机上のひろげたままの書類
ついさっきまで人がいた気配はどこにもあるのに
日がもう暮れる
鬼の私はとほうに暮れる
友だちがみんな神隠しにあってしまって
私は広場にひとり立ちつくす
デパートもホテルも
文化会館も学校も
集合住宅も
崩れはじめている
すべてはほろびへと向かう
人びとのいのちと
人びとがつくった都市と
ほろびをきそいあう
ストロンチウム九〇 半減期   二七.七年
セシウム一三七   半減期      三〇年
プルトニウム二三九 半減期 二四四〇〇年
セシウム放射線量が八分の一に減るまでに九十年
致死量八倍のセシウムは九十年後も生きものを殺しつづける
人は百年後のことに自分の手を下せないということであれば
人がプルトニウムを扱うのは不遜というべきか
捨てられた幼稚園の広場を歩く
雑草に踏み入れる
雑草に付着していた核種が舞いあがったにちがいない
肺は核種のまじった空気をとりこんだにちがいない
神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない
私たちの神隠しはきょうかもしれない
うしろで子どもの声がした気がする
ふりむいてもだれもいない
なにかが背筋をぞくっと襲う
広場にひとり立ちつくす

詩集の「注記」によれば、この詩はチェルノブイリ福島県民調査団に参加した後、1994年8月に詠まれた連詩「かなしみの土地」のひとつということだ。
この詩が、「フクシマ」を予言する詩だと最近高く評価されているらしい。
確かにその通りだろう。しかし凄いのは、詩人の予知能力ではない。地震津波原発事故を予言したことではない。この詩の英訳者アーサー・ビナードがこれは「予言だ」といっているのに対して、詩人・若松丈太郎はこう答えている。「わたしは予言者ではまったくない。ただただ観察して、現実を読み解こうとしただけのことと。【「桜と予言と詩人ーまえがきにかえて」より『ひとのあかし』清流出版2012年1月27日刊】
その通りだと思う。注目すべきは、目の前の日常・なんでもない風景の中に真実を発見する=惨劇を見る詩人の「眼の深さ」だろう。予言者として詩人を称揚するのは間違い。読者は自らの眼の空ろ・浅さに気付けばいいだけだ。
もうひとつ 書く。
上述の詩、あまり上等とは思えない。言葉の水位と展開が拙いからだ。
表現の中に社会的事象・事件・出来事を取り込むときには、細心の注意が必要だ。生のままでは使えない。使うべきではない。「濃縮・揮発・漂白」が必要だ。
下手に生(なま)ものを盛り込むと、そこから古くなり、腐り始める。
個別=偶発事件を普遍=必然の出来事へと架橋すること、これが表現の要諦であり、その手法の一つが「濃縮・揮発・漂白」である。
ちなみに、全文を挙げた先の詩を、短く刈り込んでみる。

幼稚園のホールに投げ捨てられた玩具
台所のこんろにかけられたシチュー鍋
オフィスの机上のひろげたままの書類
ついさっきまで人がいた気配はどこにもあるのに
日がもう暮れる
鬼の私はとほうに暮れる
友だちがみんな神隠しにあってしまって
私は広場にひとり立ちつくす
デパートもホテルも
文化会館も学校も
集合住宅も
崩れはじめている
すべてはほろびへと向かう
人びとのいのちと
人びとがつくった都市と
ほろびをきそいあう
捨てられた幼稚園の広場を歩く
雑草に踏み入れる
神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない
私たちの神隠しはきょうかもしれない
うしろで子どもの声がした気がする
ふりむいてもだれもいない
なにかが背筋をぞくっと襲う
広場にひとり立ちつくす

これぐらい刈り込んだ方が、より深くなるとおもうのだが‥。
作家には書きたいことがいくつもある。
畢竟 あれも言いたい、これも言いたいと詰め込み過ぎる。
言わずもがなだが、「書くこと」と「伝わるもの」は違う
そのために別の視覚=「横槍」が求められる。
「映画」が面白いのは、この「横槍」=創作に複数の眼が注がれるところ にもある。