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それもまたよし(MMと栗)

高橋輝次編著『誤植読本増補版』【ちくま文庫2013年6月 刊】をパラパラめくっていたら、詩人の大岡信がこんな文を書いていた。
誤植されている字を見て、誤植の方が気に入ったためそのまま頂戴してしまったケースもある。」 例として、マリリン・モンローを追悼して書いた長編詩の最後の部分を掲げている。

君が眠りと眼覚めのあわいで
大きな回転ドアに入ったきり
二度と姿を見せないので
ドアのむこうとこちらとで
とてもたくさんの鬼ごっこが流行った
とてもたくさんの鬼ごっこが流行ったので
君はほんとに優しい鬼になってしまい
二度と姿を見せることが
できなくなった
そしてすべての詩は蒼ざめ
すべての涙もろい国は
蒼白な村になって
ひそかに窓を濡らさねばならなかった

マリリン
マリーン
ブルー

「すべての涙もろい国は」という一行が問題の所なのです。すなわち私の元の原稿では、ここは「すべての涙もろい口は」となっていたのである。ところが、おそらく口という字を国という字の省略形と植字工が早とちりしたのだろう。ゲラ刷りでは「国」になって出てきたのだ。私はすぐにこれを「口」に訂正しようとしたが、危機一髪、「国とした方が面白い」ということに気づき、あわてて赤を入れるのを思いとどまったのである。
【「校正とは交差することと見つけたり」:初出は『光のくだもの』小学館1992年】

『誤植読本増補版』からもうひとつ↓俳人坪内稔典の一文。

寺田寅彦に次の一句がある。
    栗一粒秋三界を蔵しけり
 寅彦は物理学者として著名であり、同時に夏目漱石門下の俳人、随筆家としても活躍した。この栗の句は最近の歳時記の栗の項にたいてい出ており、いわば栗の句の代表作だ。
 私は先日、ある新聞に書いた短いエッセイでこの句を紹介したが、その際、読者からすぐに投書があった。栗ではなく粟が正しいのではないか、という指摘であった。
 この句、岩波書店から出ている寺田寅彦全集では栗の句になっている。ところが、岩波文庫の寅彦の随筆集『柿の種』では粟。寅彦は硝子(ガラス)に鉄球でつけたひび割れを顕微鏡でのぞく実験をしており、そのことを書いた随筆の末尾にこの句を置いているのだ。とても小さなものが巨大な世界を抱え持っているという意味の随筆だから、この場合は粟がぴったり。ちゃんと「あわ」とルビがついている。
 ところが、全集が作られたとき、なぜかこの句は栗の句になったらしい。その原因は分からない。原稿を整理した人の単純な間違いだった気がするが。ともあれ、寅彦の意識としては粟だったと思われる。
 では、この句、粟の句とすべきだろうか。私見では栗でよい。もし粟だったらこの句が有名になったかどうか。おそらくならないだろう。小さい物の代表みたいな粟粒にこの世の全てがあるというのは、理屈が通り過ぎて平凡だ。それに対して、栗の句とすると、理屈よりも栗の存在感そのものを生き生きと表現している。
 粟から栗への変化、それを読者による推敲、あるいは添削と考えたい。俳句は、たとえば句会でしばしば直される。直された句はそのまま作者の句になる。それが昔からの俳句の伝統だ。つまり、俳句は作者だけが作るのではなく、作者が作り読者も作るのだ。そういう共同の創作が俳句なのである。
 さて、寅彦は‥‥‥。俳句が読者との共同の創作であることをよく知っていた。

【「粟か栗か」:初出は『産経新聞』朝刊2012年11月9日号】
随分といい加減だが、なかなかいい加減。  それもまたよし、だ。