2ペンスの希望

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ちづこ流‥‥

かの社会学者の上野千鶴子センセイが書いた映画の本を読んだ。
あとがき=「かくれたシネマフリークとして」には、こうあった。
「2008年に創刊し、2013年に休刊した、『クロワッサン』のおネエさん雑誌、『クロワッサン・プレミアム』に、創刊から五年間にわたって映画評を連載した。編集部から依頼されたときには、「雑誌のつづくあいだはお引き受けしましょう」と憎まれ口を叩いた。‥‥」
正直言って、その都度書きなぐった駄文がほとんどだった。(ウエノ先生 失礼!)
ただ、合間(幕間?)に挟まれたコラム「ちづこ流映画の観方・娯しみ方」が面白かった。「その8」まであるが、「その1」をココに勝手に全文引用する。
映画は総合芸術である。原作があって、シナリオがあり、監督がいて、俳優がおり、撮影監督がいて、作曲家がいて、音楽監督もいて、編集担当もおり、それらをすべて束ねるプロデューサーがいる。オペラや歌舞伎もびっくり、のたくさんの人たちが、スクリーンの上とその背後に関わっている。にもかかわらず、まぎれもなく○○監督のもの、という作品性が刻印されているのもおもしろい。だから監督ごとのフィルモグラフィーがある。あの映画を撮ったひとが次にこれをとり、こう変化していった。同時代のだれかれに影響を与え、また与えられ、一つの波をつくっていった‥とか。パロディや引用があるのもおもしろい。映画評論やフィルムスタディズが成り立つのもそのためだ。日本には教える学科や学部が少ないのは残念だけれど。
それになにしろ映画はエンタメ(娯楽)である。1時間から2時間、映画館の暗闇のなかに身を沈めれば受け身の快楽が待っている。途中で眠ってもいいし、いやなら出て行けばよい。DVDなら家でビールを飲みながら見られるし、途中で一時停止してトイレに行くこともできれば、早回しもできる。本を読むときのように努力しなくてよい。もともと大衆の娯楽として生まれた出自の卑しさが、映画研究の評価を低めたのだろう。同じことはマンガにもいえる。コミック批評やマンガ研究はまだまだ社会的評価が低い。だけど、文学だって、最初は女子どもの手すさび、戯作だった。それが男子一生のしごと、になった歴史は最近のこと。文学に純文学と大衆文学があるように、映画にも純文学に匹敵する純映画(っていうのか?)があるし、マンガにも純文学マンガがある。そしてたとえ純文学化しても、エンタメ性を失わないのがうれしい。おもしろくなければ映画じゃない!からだ。
TVが登場したとき、映画はほろびるか、と思われた。だけど、そうはならなかった。シネマファンはなくならず、それが昂じてシネマの作り手になるひとも絶えず、映画産業はマーケットを縮小したかもしれないが、それでもなくなっていない。映画ドラマはTVドラマとちがうことを誰もが知っているし、見るときの構えだってちがう。役者だって、舞台のときと、映画のときと、TVの場合では、演じ方がちがって当然だろう。映画は映画なのだ。 努力しなくても、楽しめる

異論もあり、いくつか反論したいこともあるが、さすがにカシコイ上野先生、本の題名にこうあった。『映画から見える世界 観なくても楽しめる、ちづこ流シネマガイド』【第三書館2014年3月15日 刊】。あくまでワタシの所感、ちづこからは映画がこう見えてるのよ、ってことだろう。(千鶴子センセイが大の映画好きであることはその昔から存じ上げておりました。)
はてさて、続きは買って読むか、図書館にリクエストでもして、どうぞ。