2ペンスの希望

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「忘我」(映画的絶筆)

三島由紀夫の映画的絶筆は、「映画芸術」1970年8月号に載った「忘我」だ。
どうしても心の憂悶の晴れぬときは、むかしから酒にたよらずに映画を見るたちの私は、自分の周囲の現実をしばしが間、完全に除去してくれるという作用を、映画のもっとも大きな作用と考えてきた。  (中略)
これを一概に「娯楽」という名で呼ぶのは当を得ていない。私の映画に求めているのは「忘我」であって、娯楽という名で括られるのは不本意である。私はただの一度も、映画で「目ざめさせて」もらった経験もなく、又目ざめさせてもらうために、映画館の闇の中へ入ってゆくという、ばからしい欲求を持ったこともないのである。
官能の助けを借りながら、知的探求をさせてもらう、という、怠け者の欲張りが、いわゆる芸術映画の観客の大半なのであろう。目に見えるものはいやでも官能に愬え(うったえ)、しかも音が加わり、色彩が加われば、どんな知的な映画でも、その複合的効果を免かれる、ことはできないのである。
そして忘我とはこれ又複雑な要素を含み、エロティシズムや恐怖という感覚的衝撃も十分忘我の材料になりうるけれども(因みに、笑いはたえず人を目ざめさせるから、忘我のたのしみには適しない)、知的なパズルも亦、しばし自分の頭脳を他人のなかなか隅におけない頭脳の支配に委ねるという快感において、忘我のよすがになるわけであるから、私が喜んで見る映画は、おのずから限られてくる。

忘我、官能、怠け者の欲張り、‥‥さすが、わかってらっしゃる。
今日は、日本の文豪に敬意を表して、マーク・トウェインの言葉を添える。
この物語に主題を見出さんとする者は告訴さるべし、そこに教訓を見出さんとする者は追放さるべし。そこに筋書きを見出さんとする者は射殺さるべし    
                           著者の命によりて  兵器部長G.G 

ハックルベリー・フィンの冒険』巻頭の『警告』として記された言葉だ。 邦訳 西田実。