2ペンスの希望

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「建築映画」

鈴木了二さんは「建築映画」という概念を挙げる。
ともかく、物語にも意味にも関係なく映画に建築が映っていると少しでも思ったら即座にそれを建設映画とみなす。それだけだ。とはいえ、建物や家屋を撮っているだけではまだ建築とは言えない。 それだけでは何かが不足している。ほんのわずかの、しかし決定的な何かが。
分かりやすそうで、分かりにくい定義だ。
建築のまぎれもない建築性がはっきりと映っているかどうか。
まぎれもない建築性。=映画を観ていて物語はそっちのけで「ほらつ、いま確かに建築が映っていたよね」と思う瞬間が確かにある。
断るまでもないが建物と建築とは違う。同じ映像であってもテレビを映画がまったく異なるように。もちろんこの場合にはテレビが建物、映画が建築に該当する。しかしそれは建物と建築を差別するということではない。建物はあるときふと建築になるのだ。あるいは建物が急に呼吸を始めると言うべきか。いずれにしろその違いのあり方は差別ではなく覚醒に属している。

分からぬわけでもないが、ますます晦渋。
物語や意味を中心に据えた従来の映画の観方、語り方から自由になることだ。‥同時に建築サイドにとっては、「社会性」や「共同体」や「プログラム」といったような「意味」を中心に据えた従来の建築の捉え方・語り方から自由になることである。」「建築と映画の差し違え。そこでは建築が映画から物語を奪う。と同時に、映画が建築から社会性を奪う。」「この事態は要するに、建築的にも映画的にも、とりあえず「台無し」ということである。したがって台無しになったという自覚なくして建築映画は始まらない。台無し、それは基盤なき時代における基盤であり、それがすべての始まりだ。
不意に、ル・クレジオの「物質的恍惚」を思い出した。
そういえば鈴木さんの本、サブタイトルには「マテリアル・サスペンス」とあった。
オールド・ファッションの映画屋に一番分かり易かったのは、コレだった↓。
事物が映画の時間のなかで与えられる役割を持つと同時に、同じそれらの事物が映画の時間の外で在り続けてきた存在の二重性。映画はその意味で現実であると同時にフィクションである。