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不或

面白い文章を目にした。
安田登さんという能楽師紀伊國屋書店発行の季刊冊子“scripta”に連載中の「野の古典5 ふつうの人のための論語」【no.37(autumn 2015)】
実は孔子の時代の漢字は、いま私たちの使っている漢字よりも数が少ないのです。
私たちがいま読んでいる論語の中には、孔子の時代にはまだなかった文字も入っています。‥‥。孔子が、その時代にない文字を使っているはずがない。 となるとこれは、孔子が口に出したのは、いま私たちが読んでいるのとは違う言葉で、それが伝承の過程で変化してしまった可能性があるのです。

そう考えた安田さんが挙げるのは、「四十而不惑」=「四十にして惑わず」。
惑」の字が孔子の時代には見当たらない。‥‥少なくとも孔子は「惑わず」とはいわなかった。じゃあ、本当はなんといったか。」 彼は、中国社会科学院考古研究所編纂の図録集『殷周金文集成』やその索引などを使って探した。
見つかるのが「或」の字です。孔子不惑ではなく、本当は「不或」といったのが、音が似ていたので口承の過程で「不惑」に変わってしまったのではないか、 そう考えてみるのです。」「この字は、もともとは「区切られた区域」を意味しました。「或」に「土」をつけると地域の「域」になりますし、「口」で囲むと「國(国)」になります。それから「分けること」、「限定すること」も意味するようになりました。ということは、四十にして「惑わず」ではなく、「或(くぎ)らず」すなわち「自分を限定してはいけない」と孔子はいったのではないでしょうか。‥‥‥不惑」ならぬ「不或」とは、「そんな風に自分を限定しちゃあいけない。もっと自分の可能性を広げなきゃいけない」という意味なのです。
安田さんの論証が正しいかどうかは知らない。そんな学識はない。トンデモ説かも‥。
けど、「不或」「或(くぎ)らず」という言葉には惹かれた。
線を引かずにどこまで行けるかが、大人の器量のひとつに思えてくる。