漫画に映画的手法を導入した嚆矢は手塚治虫だと流布されてきた。
どうやら間違いらしい。先達が居たようだ。
三町半佐(ドン・キ・ホーテの従者サンチョ・パンサのもじりペンネーム?)。知ったのは、昨日書いたみなもと太郎サンの本『お楽(たの)しみはこれもなのじゃ 漫画の名セリフ』。さらにネットをグググってみたら、こんなのを見つけた。
三町半佐「義経物語」↓ 小学館の月刊学年誌「小学六年生」1959年2月号
一方 下段は、手塚治虫「鉄腕アトム」↓ 光文社月刊誌「少年」1964年1月号。
ともに引用は、労作HP=「三町半佐 まぼろしの漫画家の謎を追う」から。
このホームページとてもよく出来ていて読ませる。是非時間のある時におたずねを!
http://homepage3.nifty.com/koberandom/2010new-santyo/san01.html
同HPから さらに幾つかオマケで引く。
これも最近知ったのだが、今のマンガ好きの間では、マンガへの映画的手法の導入は、戦前にまで遡り、1930年の宍戸左行「スピード太郎」に始まるというのが“常識”“定説”になっているのだそうだ。
宍戸左行「スピード太郎」1930年〜1934年『読売新聞』「色刷付録少年新聞」 連載
いきなりの総天然色(アメリカ映画みたい!)ナナメのコマ割り、クローズアップや俯瞰・あおりカット、視点の変化、映画レンズ的画角によるデフォルメ表現、などなど昭和初期にはさぞかしハイカラだったことだろう。
とは言え、どちらが早いとか、元祖本家争いに、当方一切興味はない。評論家、学者センセ、研究者あたりに任せておく。言いたいのは、表現の世界の奥行き(業)は深いこと。学ぶ・真似ぶ・パクリ・いただきが重ね合わされながら歴史は進むということ。
この二つ。どっちがエライわけじゃない。どっちもエライ。これでいいのだ。
宍戸左行も三町半佐も手塚治虫もみんな漫画が好きで好きで真剣に自由に切磋琢磨してきて今に至る。
【今日のオマケ】
泣く子も黙る手塚治虫「新宝島」トップシーン「冒険の海え」
だれもが指摘していることだが‥、セリフもなければ擬音もないのに、初めて読んだとき“音が聞こえて”きて、“砂ぼこりが舞った”ことを覚えている。