2ペンスの希望

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暗闇+集団

映画はVHS、DVDのパッケージを経て、配信の時代に入ったと云われる。確かに。わざわざ映画館に足を運ばなくとも、等の昔から録画した映画を大画面それなりの大画面・の音響で見られる。オーダーすれば自宅にパッケージが届くし、クリックすれば山のようにラインナップが並ぶ。選び放題見放題。配信でしか見られないオリジナル映画も増えた。ホームシアターを作る御仁もあれば、映像ソフト=コンテンツはもっぱらPCかスマホで愉しむという若い衆も当たり前になった。彼等は、映画より動画と呼ぶ。最早 隔世。それでもいそいそと映画館に出掛けるのは何故だろうか?「映画館で映画を見る」というのはどういうことなのだろう?

暗闇と集団 というキイワードがすぐ浮かぶ。拘束された暗闇の中で大スクリーンに向かい、見知らぬ人々と一緒に見る。何を共有するわけでもないのだが、同じ映画を選んだ他者との もわっとした共有感・共生感。そういえば大昔読んだ本で、唐十郎が「映画館は時代の迷子たちの溜まり場だ」と言っていた。最近読んだ本では、黒沢清がこんなふうに言っていた。「どうやら自分の隣の客は映画を見る気などなく寝ている。それも良いだろう。しかし僕はこの映画を見ている。映画と自分が面と向き合っていると同時に、どうもそうではない自分以外の他の人たちがいる。そのことによって、社会の中で自分が何者であるのかというのが嫌でも認識される場所が映画館なのだと思うわけです。もちろんそんなことを認識するために行っているわけじゃないんですが、嫌でも認識しちゃいますよね。「なんでこんなとこで笑うの?」とか、「なんでこれ誰も笑わないの? めっちゃ面白いんですけど?」というように、家で一人でテレビ画面を見ているときには味わえない、社会の姿を肌身で知る瞬間、自分ってこういう人間なのかと考える瞬間がある。そういう感覚は僕にとって映画館で映画を見る経験と直結しているものです。」【『そして映画館はつづく あの劇場で見た映画はなぜ忘れられないのだろう』2020年11月 フィルムアート社=編】同意。(彼がつくる映画より数段深い、と書けば失礼に過ぎるが‥)