2ペンスの希望

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「セット」シーン

民放地方局で長くTVドキュメンタリーを作ってきた人の新書を読んだ。

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NHKの「セット」シーンのことが書いてあった。NHKが作ったあるドキュメンタリー番組の例だ。取材対象は、犯罪被害者の家族。かいつまんで、引用(緑文字)も交えながら紹介してみる。

同じ取材対象を当の民放地方局とNHKの両方が追っていた。NHKは被害者家族の家の中(らしき場所)を撮影し放映した。

「‥NHKは、なぜ被害者家族の家の中の撮影ができたのか。信頼関係の深度の違いだということなら、それはそれで納得だった。しかし、そうではなかった。番組に映し出されていたのは、被害者家族の家ではなかったのだ。部屋は、ウイークリーマンションのようなところを借り、観葉植物やカレンダーは被害者家族のものを運び込んで撮影したというのだ。」「撮影はロングショットで部屋全体を見渡せるカットがない。生活感のなさがばれてしまうことを、このスタッフは知っているからだろう。そして画面には、「再現」とも「セット」とも、「借りた部屋で撮影しています」などのエクスキューズに字幕はない。

別の例にも敷衍している。

たとえば、ひきこもりのスペシャル番組があるとする。ひきこもっている本人がインタビューに応じると言ったが、自分の部屋ではイヤだと言われた。私ならば時間をかけて説得を試みる。しかし、どうしても折り合わない場合、スタジオや公園のような空間を用意してインタビューするかもしれない。しかし、NHKでは彼の部屋に似せたセットを作って、そこで撮影する。開けることのないカーテン、暗い部屋でパソコンが光る、脱ぎ散らかした服、カップラーメンの殻、空き缶、菓子の袋が散乱している、彼にパソコンを操作させる、もうワンシーンは彼に布団の中でうずくまってもらおう。演出側が思うひきこもりの生活の再現とインタビューを、思い通りに作っていく。しかし、画面には「再現」とも「彼の部屋ではない」とも明示しない。彼の部屋だと思い込むのは、視聴者の勝手だとでもいうように。

過去に何度も報じられてきたいわゆる「やらせ」問題だ。悩ましいことだが、当管理人の今の考えを投げ出してみる。

「セットシーン」手法が必ずしも悪いとは思わない。劇映画がセットなのにロケなのかは、制作サイド・スタッフキャストには重要だが、受け手・観客・視聴者にとっては二次的だ。つまりは「表現手法は何でもあり」そう思ってる。そもそも表現なんて根本的にアナーキー、ご意見無用、掟破りの悪魔の所業なのだ。エクスキューズを明示するかどうかもビミョーだ。どっちでもいい気がする。上記の例も、巨大NHKと零細(失礼!)民放地方局の蓄え(知名度・権威・信用度‥etc.)の違い、とどのつまりはお金や時間の問題、潤沢度の差じゃなかろうか。世には、再現ドキュメンタリーもあれば、ドキュメンタリードラマもある。ストレートニュースも含め、すべては作り物、なのだ。

それでも、程度問題があるだろう、闇討ちみたいでフェアじゃない! そんな意見もきっと聞こえてくる。けど、残念ながら、世の中 何処を見渡してみてもフェアなんて見当たらない。今一度 新書を帯付きで引いてみる。

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「世の中には理解不能な現実だってある。」と書いてあった。赤字で「全メディア人必読!」なんて文句もある。結構な煽り、だ。けど、メディア人の深化・進化を問い直すのも結構だけれど、

むしろ、作り物の嘘に騙されない「受け手」の眼力・リテラシーの涵養・受容能力向上こそ、急務だロートル管理人は感じている。受け手の劣化懸念がぬぐえない。だいぶ前から、目の前に「赤信号が点滅」し、胸の奥深くでは「サイレン」が鳴りやまない。

 

図に乗って、興に載って、さらに言えば、「批評」の衰弱・弱体化が一番よろしくないのかもしれない。映画研究者は山のように増えたが、本当のことをしっかり語り、作り手と受け手をつなぐ力を発揮する「批評家」「評論家」が見当たらなくなって久しい。感想家、コメンテーター、レポーターなんて肩書だけの役立たずばっかりが目立つ。