「学」があることは悪いことではない。従って、映画学を否定するわけではない。映画芸術学、映画社会学、映画史学、映画理論、表象文化論、視覚表現研究、作家・作品研究、脚本研究、記録映像研究、表現技術研究、制作技術研究、‥‥、‥‥、限りなくカリキュラムが並ぶ。眺めていると学者・研究者というのはつくづく不幸・不遇な役回りだなぁと思ってしまう。好きでやっておられるのだろうからとやかく言うの失礼の極みだろう。けど、科学的厳密さを担保するために、映画の細部を探り、文献を渉猟する。ピンセットで摘まむようにディテールを引きだし、一言一句おろそかにせず論じ尽くす。ご苦労なことだ。とはいえ、頭は下がらない。
「学がある」ことと「映画を楽しむ」ことは別のことだと思っているからだ。
学があるに越したことはなかろうが、学なんてなくとも映画は十分堪能できると信じるからだ。
今はどうだか知らないけれど、昭和の昔「あの人、学があるね」という言葉の裏には、表面の意味とは逆の意味がこめられていたものだった。
もうひとつ、半世紀以上前の話だが、当時アメリカでもっとも影響力のある女性映画批評家が、或る映画理論本について「深刻な顔つきと持ってまわった言い回しで映画について小難しい理屈をこねるだけの「偏執狂的な理論」にすぎない」と酷評していたことも思い出した。
繰り返すが、「学があっていけない」なんてサラサラ思わない。貴重で大切な営為であることに間違いはない。けど、それだけでは片 手落ちというものだ。学がすすんでも映画は豊かにならず、むしろ貧血が増すような気がして仕方がない。