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「浅薄な名画」

ポーリン・ケイル女史の本『RASING KANE スキャンダルの祝祭 ウェルズ、マンキーウィッツ、ハースト 誰が『市民ケーン』をつくったか?』から、「文芸技」をもう一つ。

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偉大な作品というものは、なぜ、どこが偉大なのかを説明するのは難しいし、特に映画はそうであり、中でも特に『市民ケーン』についてはそう言えるかもしれない。というのは、『市民ケーン』はとりたてて深みのある作品でも精妙な美を秘めた作品でもないからだ。『市民ケーン』は浅薄な作品、浅薄な名画(引用者註:訳文では傍点付)である。他の傑作と違う点は、これがポピュラーなスタイルでの娯楽作品として腹案され演じられたことである。例えば『ゲームの規則』『羅生門』『アラン』など、大衆を喜ばせるとはふつう考えられない映画とは違うのだ。

芸術作品だと認めたいとき人は何をするかというと、どうやら最も手っ取り早いのは、教科書のお手本通りに解説することであり、たしかに、『市民ケーン』はフーガ形式による悲劇だとか、『市民ケーン』の主人公は時間だ、そして時間は重要な映画の現代的ヒーローだ、とかいった諸論文が書かれている。しかし、偉大さを語るのにきまりきった教科書の説明を借りてきて、この映画が深遠だというようなふりをしてしまうと、何がこの映画をこれほどの栄光あるアメリカ的名画としているのかを見逃してしまう。『市民ケーン』はアメリカの醜聞摘発(マックレイキング 引用者註:muckraking 悪臭ふんぷんたる堆肥をスキで跳ね上げるという農夫に由来し、行政や権力の腐敗を告発するジャーナリズムを意味するの風刺が持つおふざけの中から、人を美的に興奮させ後の世まで残る何物かを、創り出すのに成功した名画なのである。

浅薄な名画」とは、お見事 技あり一本、だ。

ケイル女史のこの本、冒頭の一行目はこう始まる。

市民ケーン』はおそらくトーキーになってからのアメリカ映画の中で、今なお初公開の日と同じくらい新鮮に見える作品である。

80年後の今となってはパンフォーカスも長廻しもローアングルも当たり前になってしまった。それでもなおこの「手放しの喝采」には異議なし!である。