「誰に向けて何を言うのか」
「とにかく調べて調べて調べ尽くすこと」
今の日本の映画に欠けているものはいっぱいあるけれど、とどのつまり この二つなんじゃないかなと思ってる。
かつて沖島勲監督は或る座談でこう発言していた。
沖島「単にシステム
そうじゃなくて、一回 誰に向って本当に何を言いたいのか?あなたにむかって言いたいことがあるのならば、(どうすれば伝わるか)ひとつの考え方やものの言い方を考えな
思い付き、ひらめき、ワンアイディアからスタートすることを否定はしない。けどそれだけで走り続けるのは難しい。脇甘く、ざるで雑のままの材料では遠くまでは走れない。見切り発車と中途半端が多すぎる。
横にしたり、裏返したり、斜めから見たり、ためつすがめつ(矯めつ眇めつ)、隅から隅まで、奥の奥まで調べ尽くすことだ。何っ?「そんな時間もお金もないし、うかうかしてたら盗まれる、先を越されるっ」てか。なあに、心配しなくっていい。安普請は早晩バレる。促成栽培・粗製濫造は放っておくことだ。世間はそんなに馬鹿じゃない。昔に比べ今は調べる手立ては格段に増え容易になった。それなりの手立てを施し、並の常識・良識・日常感覚を持てば、安易安価にかなりのとこまで調べられる。なのに、調べない。遮眼帯をつけたまま、安楽椅子に座って、馬脚を露す。観客・受け手を見くびってはいけない。底浅いやっつけ仕事と見間違えられないためには、調べごとは欠かせない。(例えばの話、アジフライが評判の食堂が出てくるのなら、なぜ美味いのか、レシピまでを調べる。)
調べたことをどこまでどう盛り込むかは別にして、まずはとことんまで調べあげることだ。平面二次元のスクリーンを奥行き深い三次元にするためには端折ってはいけない。その上で作り込む。
さらに望むなら、頭低く、肩の力を抜いて、無理なくさりげなく、さらりとさしだすのが一番いい。
無い物ねだりみたいに、ここまで望むのは何故かって?
作者の関心と体験に発して生まれた産品が、受け手である観客の関心に響き、体験を喚起して、みんなして手に手をとってともに普遍に届きたいがため、だ。