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斎藤環:映画機能主義者

斎藤環の『映画のまなざし転移』【2023.2.22. 青土社 刊】を読んだ。『キネマ旬報』誌に十年以上にわたって隔号連載した記事を中心にまとめたものだ。

前回の太田和彦とは180度違うがこれまた年季の入った映画愛好家である。本業は(ご承知のことだろうが)精神科医。「大学教員としての教育、研究、臨床業務の余暇を利用して」、もっぱら「旅先での映画鑑賞を好む」と書いている。現地でふらりと映画館に入ったり、DVD持参で旅行中に観たり‥。

備忘録的に印象的だった幾つかを挙げて置く。

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私は「映画のための映画」派ではなく「何かのための映画」派である。「文学のための文学」を純文学と呼ぶとすれば、「映画のための映画」派は純映画主義とも呼べるかもしれない。一方私の立場は映画機能主義ということにもなろうか。映画はこの世界を知るための媒体である、という立場だ

前者(引用者註:「映画のための映画」派)の極北が蓮實重彦氏であることは論を俟たないし、私が「シネフィル」と称しているのは、そうした純映画主義に殉じた人々のことである。これは決して揶揄ではなく、むしろ私が決して「あちら側」には行けないであろう、という諦観と劣等感の表明でもある。

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映画機能主義者たる私は、鑑賞の環境にはあまりこだわらない。‥‥ 現在の液晶大画面8Kテレビなどはほとんどホームシアターである。オンデマンド配信サービスのおかげで、スマホタブレットで映画を観る行為にもなんら冒涜的な印象を持っていない。つまらない映画を倍速再生することにもためらいはない。にもかかわらず、私は映画を愛しているのだ。

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私の考えでは、映画館で映画を鑑賞する行為は、しばしば最後(ゴール)まで見終わった満足感とともに忘れられることになりやすい。しかし「旅の途上」で観る映画は、旅の経験と渾然一体となり、プロセスとして記憶されるのではないだろうか。だから見終えても完結しないまま、脳内上映が続いていく。「面白かったからいつかじっくり見直そう」という気持ちが残り続ける。

そうした意味では、映画を完全な状態で鑑賞するよりも、不完全な状況下(スマホで、倍速で、細切れで、旅行中に)で観ることにも意味があるはずだ。それは少なくとも、「プロセスとしての映画」の断片を、長く記憶にとどめおく効果があるだろう。そこからはじまる映画愛。映画欲がきっとあるはずだ。だから私は、映画機能主義者として強く言いたい。どんな形でもいいから映画に触れ続け、映画の門前に長く留まり続けて欲しい、と。そんな形での「映画との対話」もあるのだから、と。

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つまりこういうことだ。私は「映画のための映画」――それはそれで嫌いではないが――より「何かのための映画」が好きなのだ。この「何か」には、イデオロギー、倫理観、作家の無意識(あるいは「病理」)、大衆の欲望などの要素が入る。‥‥ 突き詰めれば、精神科医としての私は、いつか表現が「治療」や「ケア」に接続する日を夢想しているのかもしれない

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頑迷保守・旧態依然の守旧派としては にわかに賛成しかねるところもある。反論もある。ただ、「誠実な挑発」であることは認めたい。しっかり受け止めて、胸に刻んでおくことにする。とりわけ、「表現が治療やケアに接続する」という指摘は精神科医の本領発揮。魅惑的な論述と、納得。