2ペンスの希望

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「選択する」

演出家・監督の仕事の根本は、「決めること」だと思っている。
何かに決めること、何かを選ぶことは、それ以外の可能性を捨てることだ。覚悟と責任がなければ出来ない。そう思ってきたら、先日書いた土田昇さんの本『時間と刃物 職人と手道具との対話』【2015年1月 芸術新聞社 刊】でこんな文章に出会った。
かなり長いが、無断で引用させて戴く。
選択する
選択するという行為は、最もやっかいな事柄ではないでしょうか。そんなやっかいなことがなければ、人の一生は、ずっと楽になるのではないかと思います。物が豊富にあり、情報も抱えきれないほど溢れかえっている現代、誰もが何かを選び、どれかに決定しなければならない瞬間の連続の中に生きていかざるを得ません。それは重荷でもありますし、人が処理し得る環境とは言えないところまで、行き着いてしまった感があります。よって、人の能力以外のものに頼らざるを得なくなります。
パーソナルなコンピューターなどは、その良い例でしょう。

さて、刃物店を営む者としても、そして、手道具などという原始的なものを扱う身にとっても、やはり、物も情報も溢れかえているということに違いはありません。大工職が九割以上であった客層も変化して、さまざまな職業の方が来られるようになりました。大工道具という名称のもとで、鋸もノミも鉋もひっくるめることのできた時代は、遠い昔のこととなったような気すらします。つまり、それらの手道具は、主に大工職が使用するものであるという常識が通用しなくなっているのです。むしろ、楽器や指物を製作している職人、優秀な家具を作っている人々、木彫家や能面作家の間でこそ、木工手道具は使用されています。
例えば、単に板の表面を仕上げるための鉋と言いましても、それが机の天板のためのものか、ギターの表板のためのものか、小さな木箱となるべき指物の部材を仕上げるのかによって、鉋刃の幅はもとより、裏金の有無、台面調整の仕方、刃口の状態など、それぞれに、より適した条件というものは違ってくるはずです。あるいは、手の大きさなど個人の身体的な特徴によっても、何を手に入れるべきかの選択の少なからず影響を及ぼすこととなります。もちろん予算や好みも重要です。かつては堅固な徒弟制度の下で、手に入れるべき道具は、親方である職人が弟子に勧めるというのが一般的でした。種類から、鍛冶屋、台屋まで細かく指定して、購入し得る予算内で、その弟子の技術に見合ったものを、いわば選択したのです。
しかし、時代はそんな習慣を、少なからず変化させてしまったようです。働いて得た収入から、生活費、遊びに使う分をまず取り除き、残ったものを道具購入に充てるというのが一般的です。家族、収入、仕事内容などを考え、身のほどを自ら計算して選択してゆきます。バランス感覚が優れていると表現できるのかもしれません。
しかし、このバランス感覚は、何によって支えられたものなのでしょうか。ほど良さを知り得る方法を、どう身に着けたのでしょうか。もしかしたら、選択するというやっかいを無意識に回避するために、自然に備わってしまったのかもしれません。持つべき道具をうるさく指定する親方もいないし、大方の作業は機械がこなしてくれる環境で、あいまいな世間評や価格という情報に振り回されるくらいなら、サイフに残ったお金で購入可能なものを、とりあえず手に入れておこうという方法を実践しているに過ぎないのではないでしょうか。
科学知識の普及により、価格的に手に入りやすい刃物も、かつての粗悪品のような、煮ても焼いても切れないものは、ごく少なくなりました。調整方法に問題がなければ、それらは十分機能します。考え方次第では、とても恵まれた環境に、現在の職人たちは生きているのです。
しかし、心の片隅には、何かを作り出すことへの期待や興奮が少なからずあったはずです。今それは心の一番奥に縮こまり、小さいながらも重い一点となり、光を当てられぬことで、さらに密度を増した鋭い痛みと化してはいないでしょうか。
なぜ、いろいろなことを選択しつつ生きていくことがやっかいなのか。それは選択されるべきものに光を当てないでいるから、という側面があるように思えてなりません。

選択しきれず迷うことも苦しいし、生活苦をともなう道を突き進むことも、当然楽であろうはずはありません。どの道やっかいであるのなら、サイフの底より、心の底にしたがって生きたほうがよいように思います。多くのものや情報も、心躍る域のものは意外に少なく、少しは気楽な気持ちになれるかもしれません。