2ペンスの希望

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黄昏‥‥㊵

㊵は濱口竜介 1978(S53)年12月生。

本では諏訪敦彦のあと「青山真治」と「豊田利晃」「大森立嗣」「横浜聡子」が取り上げられているのだが、残念ながら管理人は四人の映画をまともに観ていないので割愛。上野『黄昏映画館』には45人の監督が生年順に並ぶが、1960年生まれの瀬々・諏訪から1978年生まれの濱口まで跳んでいる。その間に、映画監督が現れなかったわけではない筈だが‥なぜか抜けている。ブランク なぜか?)

メジャーデビュー作『寝ても覚めても』(2018)について上野は「(日本映画では極めて稀な純粋恋愛映画ではないか」と書く。

(主人公の女性は)ほとんどなんの社会的なしがらみも制約も負ってない。彼女には、家族の影もない。いるのかもしれないが、その存在を窺わせるようなものは何もない。周りにいるのは友人だけだ。恋愛を阻害する社会的な制約も枷もない。これでは、それこそ、劇には枷が必要だといった笠原和夫に叱られるかもしれないが、一面でそれは、現代なればこそ、という理由もある。いわば、砂漠の中の砂粒のような孤独と背中合わせの「自由な個人」であるがゆえに、枷がない、というように。だが、むろん、現代人だからといって、枷がないわけではないのだから、枷を負わせることはできる。実際、現在の映画の多くはむしろ、家族や会社組織のしがらみや病気やそれに類する制約を科すことで、ドラマを作るのを常套としている。そのほうが話としてわかりやすいし、よりドラマチックに盛り上げることも容易い。だが、柴崎友香の原作は、それを取っ払い濱口竜介は、その骨格をより強固に押し出すことに努めた。なぜか? 他の要因ではなく、恋愛そのものの理不尽な情動に的を絞ったからだ(「キネマ旬報」2018年9月下旬号 太字強調は引用者)

映画は、戦争や社会的因習、家族や病気や老いといった枷・しがらみとの抗い・葛藤を描いてきた。濱口映画は、それらを超えようと試みた「現代(恋愛)映画」なのだ、と上野は指摘する。

家族より、友人。上下・長幼といったタテ関係の呪縛より、対等・平等、自由でフラットなヨコ並び関係の悶々へ

その試みがどこまで行くのか、見守りたい。