2ペンスの希望

映画言論活動中です

映画本 三本立

暑いので映画館には行かず、映画本ばっかり読んでいる。

一番バッターは柳下記一郎(1963年生)『皆殺し映画通信 死んで貰います【2023.5.10. カンゼン 刊】

冒頭にこうある。

日本映画の底が抜けた、と言ったのは山根貞男(1939ー2023)だが、その山根氏が鬼籍に入った二〇二三年、まだまだ映画の底は見えてこない。‥いつからか、映画は映画のプロフェッショナルが作り、映画館で上映されるものではなくなった。映画館ではない場所で上映され、映画のことなど何も知らない人間が作るもの、それを映画ではないと切り捨てられるほどことは簡単ではない。もう〈キネマ旬報〉を読んでいれば映画界が把握できた牧歌的な時代ではないのだ。すべてが許され、すべてが映画なのである(太字強調は引用者 以下同様)

二番手は、渡邉大輔(1982年生)『新映画論 ポストシネマ On Post-Cinema【2022.2.1. ゲンロン 刊】

ポストシネマ」なるコンセプトを提起し、「映像(技術)デジタル化」と「人間中心から人間以降へ:ポストヒューマン」という二つの視点をふまえ、「ありとあらゆる年代の映画がすべて前後の文脈を脱臼されてレイヤー状(幽霊的?)に重なりあい、ジャンルや文脈を越えて、レコメンド(引用者註:おススメ  推奨的にフラットに並列されて受容される」時代に入ったと主張する 解析論考本。

三番目は、浅田修一(1938ー2001)『神戸 最後の映画館』【2001.3.31. 幻堂出版 刊:1985年刊行の『神戸 わたしの映画館』増補改訂版】

浅田氏は評論家でも研究者でもない。20年ほど前に神戸で亡くなった只の〝オールド映画好き〟である。

元版のあとがき(1985年5月18日付)には こうあった。

ある映画を観るためにある映画館に入るという、ごくありふれた行為の中に、私たちはどれほど多くの暮らしのあれこれを引きずり込んでいることだろう。‥ その意味で、あの映画館の闇というものは、単に技術的な必要性というにとどまらず、なかなか味のある空間に違いない。私たちが持ち込んだもろもろのものは、あの闇の中で、ひととき癒され、翻弄され、やがてひとつの形をとる

そのような私たちのありようは、タダの映画を試写室で、どこか意地の悪い眼付きをして見る人たちや、いわゆる「映画マニア」の、決して細部を見逃さない人たちや、映画を政治や商売にかかわる有効な手段として、作ったり眺めたりする人たちの経験とは、少しばかり違うだろう。そして、映画を見る多くの人たちの経験とは、恐らくそういうものだと思う。

さて、あなたならこの三冊 どれに「いいね!」?