2ペンスの希望

映画言論活動中です

あるもので作る

映画はあるもので作る。ないものでは作れない。
才能も技能も、お金も時間も。限られ、それぞれに台所事情がからむ。
小津安二郎にこんな発言がある。
カット毎にあっちこっちからライトを運ぶので、二、三カットやるうちに床の上は電気のコードだらけになってしまう。一々片づけて次のカットに移るのでは時間もかかるし、やっ介なので、床の写らないように、カメラを上向けにした。出来上がった構図も悪くないし、時間も省けるので、これから癖になり、キャメラの位置も段々低くなった。」【東京新聞1952年12月5・12・19・26日「小津安二郎芸談」連載記事】
キャメラ位置を低くして下から見上げるオズのローポジション。その意味と由来には諸説あるが、これがご当人の弁。ありあわせの、その場しのぎ。悪くない。
無いものねだりからは何も生まれない。肝に銘じておきたい。
 (久しぶりに読み返した小津のエッセー・インタビュー集『僕はトウフ屋だか  らトウフしか作らない』【日本図書センター2010年5月25日 刊】から、
  目についたものを幾つか‥。
  「筋で見せる映画と性格で見せる映画
  「いくら上手でも職人では底が知れている
  「映画を引きずってゆくものは、観客の生理と結びついた映画感覚であって   技術上の文法などというものではない」「感覚はあるが文法はない」 )

『JuBAL』

管理人御贔屓の濱口竜介さんがこんな文章を書いている。
大学に入ってから、それまで見てきた映画のジャンルががらっと変わって、ハリウッド映画といった「面白い」映画だけでなく、ヌーベルヴァーグ、ニュージャーマンシネマ、アメリカン・インディペンデント映画といった「退屈な」映画も見るようになった、とした上で、
「面白い」ハリウッド映画は「情報」を因果関係の連鎖として提示します。その緊密な連鎖は本来なら時間に含まれているはずの「退屈」を排除してしまうほどのものです。‥この独自の洗練にハリウッド映画が至ったのは、ビックバジェットで映画を作り続けるサイクルを保つため、「生きもの」としての人間の生理に忠実であらざるを得なかった、その結果でしょう。我々はそうした部分を退化させているとは言え、基本的に生きものであり、動物ですから、眼前の世界から情報を読み取って、それを自らの生に役立てようとします。(かつては、目の前の動植物を「食料」と看做して狩猟・採集するところから始まっていたであろうその習慣は、今もスーパーやコンビニでの商品の取捨選択として残ってもいます)。そうした「面白い」映画がどれだけ私を楽しませてくれたか、‥‥」【2012年6月 「手紙についての手紙」〈otegami,orchidclub.net〉に寄稿】
ということで、
(何が、ということでなのかは、恐縮ながら説明抜き) 今日は、
1956年公開のハリウッド西部劇『JuBAL』。邦題は「去り行く男」
監督Delmer Daves 主演Glenn Ford  そうあの『13:10 to Yuma』のコンビ

予告編?‥‥映画のテイストとはチト違うが‥

こちらは、映画のワンシーン

少々強引 図式的「面白」ハリウッド映画 退屈排除。

間接の思想性

今日も備忘録。
漫画における思想性は、その漫画の中に織りこまれる思想そのものによるよりも、むしろ、自由な思想の行使にとって不可欠なしなやかさを保つための、思想の屈伸体操を提供することにある。それぞれの漫画作家は、独自のツボをこころえたあんまのようなもので、各人各様のこわばりかたをする知性に対して適切なあんまをこころみる。だが、同時代の学問や芸術の諸様式が直接の思想性を失ってゆく時、漫画は、知性のあんまとしての間接の思想性だけにみずからを限定できなくなってきた。‥‥
どなたの文章か?ですって。半世紀以上前、鶴見俊輔さんが雑誌「展望」の発表した「『ガロ』の世界」【1966年1月号】の一節。
知性のあんま」「間接の思想性」「思想の屈伸体操」‥‥
漫画も映画も、その思想性は「間接」「あんま」に(こそ)ある。
   このことを忘れないでおきたい。
「学」としての漫画・映画より、「楽」としての漫画・映画。
論じるより、まず楽しめるかどうか、それが勝負どころ だろう。

いいぞ 明香

『女優芹明香伝説』【ワイズ出版2018年5月 刊】を読んだ。

中でご自身も書いているように芝居は下手だ。正直 演技は拙い。
けど、忘られず得難い「映画女優」のひとりである。(舞台では、芝居や演技ができない役者は役立たずだが、映画では、存在感だけで、棒立ち・棒読みセリフでも異様な光芒・精彩を放つことがある。映画の「役者」とはそういうもの)
面白かった箇所をひとつだけ。
⇓⇓この本の編者で、芹明香の大ファン:鈴村たけしさんのロングインタビュー。 代表作『㊙色情めす市場』についてのやりとり。
(鈴村)――これ最初に芹明香が主演すると聞いたときに、タイトルは「受胎告   知」だと。すごい題だと思っていたら、公開時には『㊙色情めす市場』に   変更。なんじゃこりゃと思った(笑)。
(芹)でも私ね、なんか『めす市場』ってタイトルのほうが好き。「受胎告知」   より合っている気がする、あの映画に。現実的でしょ。「受胎告知」っ    て、そんなきれいなもんじゃないだろうって‥‥。うん、何かもっと現実的   で生臭くなければ、ってね。(中略)例えば母親も娼婦ということひとつ
   とってみてもナマ臭いものじゃないですか、人間のセックスとかいうもの   も含めて。それを『めす市場』というタイトルがうまく表わしている気が   する。〝市場〟ってそうじゃないですか。生活に密着していて、ナマっぽ   い所じゃないですか。だから私はこっちの題の方が好き。「受胎告知」な   んてね。神代さんだったら、「そんなもんじゃないだろう」って言うわ    よ。そんな感覚よ。そういう意味で田中登さんは「受胎告知」派なのよ。   田中さんはそうなのよ。私は『めす市場』派なのよ。

いいぞ 明香。

理不尽な‥

吉川浩満さんの『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』【朝日出版社 2014年10月 刊】を読んだ。
本書は専門書や学術書ではない。広く一般の読書人に向けた(少し長めの)エッセイである」と前書きで述べている通り、四百頁を超えるがサクサク読める。
たまにおさむい親父ギャグも混じるが、主張はシンプルにして明快かつ明解。
そう読めた。⇓ ⇓ ⇓  《青字はまんま引用部分 紫字は意訳(誤訳?)箇所 》
進化論の社会通念的人生論的フレームアップ=拡大解釈はいい加減やめるべし。
「競争し、適応し、進化し続けよ」は勝者の論理でしかない。
進歩・前進・改良・上昇・発展・向上「信仰」は御免蒙る。
そもそもが、
●「(ダーウィニズムもネオダーウィニズムも)弱肉強食・優勝劣敗ではない
●「自然淘汰は、なべて盲目的であくまで結果に過ぎない。
●●「適者生存は「適者は生存する」という法則ではなく、「(結果として)生存する者を適者と呼ぶ」という約束事でしかない。
●「劣っていたからというより、運が悪かった
●「論イズム 学ロジー 則ルール を 混同する勿れ」 etc.etc.‥‥
とてもじゃないが科学的判定は、当管理人(=一般の読書人)の手には負えない。けど、
生物の歴史が教えるのは、これまで地球上に出現した生物種のうち、じつに九十九・九パーセントが絶滅してきたという事実である。私たちを含む0・一パーセントの生き残りでさえ、まだ絶滅していないというだけで、いずれは絶滅することになるだろう。」という記述は、目を引いた。十分 刺激的。
「映画」≒ 絶滅危惧種 というあられもなく行儀の悪い妄想がぼんやり浮かぶ。
レッドリスト なに「赤信号みんなで渡ればこわくない」(©ツービート)って?

渾沌から開闢へ

昭和の映画はとうに終わり、平成の映画ももうすぐ終わる。
私が生き愛してきた映画は昭和の映画だ。
フィルムの映画、スタッフワーク・分業の映画。
時代とともに映画も変わる。
平成の映画は、デジタル・メモリーチップの映画、セル生産方式自己完結型
マルチプルプレイ)映画となった。(もっとも映画はそもそもが複合体の産物
ゆえ、統合・連携が必須であることに変わりはない。ただそのありようはこれまでもこれからも絶えず変化し続けるだろう。過去の歴史を簡単清算・リセット、上書き消去と云うわけにもいくまい。)
今の映画は液状化し、眼も鼻もない渾沌の中でもがいているように見える。
新しい年号の新しい映画が、渾沌を抜け、新たな地平で力を付けていくことを
切に願う。古事記の国生み神話ではないが、混沌から開闢へ。
もっとも荘子「渾沌、七竅に死す」なんてのもあるので、一筋縄ではいかない。天地無用・取扱注意。油断なくいきたい。

敬して遠ざけ日が暮れる

「映画監督・柳澤壽男の世界」という副題を持つ本『そっちやない こっちや』【浦辻宏昌+岡田秀則 編著 新宿書房 2018年6月30日 刊】を読んで色んなことを考えた。
残念ながら一本も観ていない。
福祉啓発映画(福祉ドキュメンタリー)という枠組みへの先入観ありで、公開当時は 生意気盛りの二十代映画青年の食指は動かなかった。『夜明け前の子どもたち』『ぼくのかなの夜と朝』『甘えることは許されない』なんてタイトルも何だかなぁ、と 敬して遠ざけてきた。本を読んで初めてその切実・誠実・真摯を知った。短編映画、PR映画業界にどっぷりつかってきた一人として、身につまされ身に沁みる言葉がいくつも並んでいた。
塩瀬申幸キャメラマン野田眞吉さん、中村敏郎さん、物江竜慶さんなんていう懐かしい名前もあった(いずれも若い頃 当ブログ管理人がお世話になった方々)
「人間の内面は写せるか」という問いかけ。
この国には、「大えらいさん」、「中えらいさん」、「小えらいさん」がいっぱいいる。自分の中のえらいさん願望との「タタカイ」も含めた両面作戦。」
終生大切にした映画作りの要諦「行って来いの関係」
お前の仕事はウイットとユーモアに欠けている、ベトベトしてカラッとしていない、絶望を語るのはうまいが希望を語るのは下手くそ、と批判されても抗議もできない。‥‥もしうまく工夫して私と被写体両方のドキドキ、ハラハラ、ウロウロを観客に伝える方法が見つかれば私の仕事は変わるかもしれない、と自問自答。」etc.
評伝を纏めた浦辻さんは柳澤監督の気質を「「怒り」ではなく「いとおしさ」」と表現し、「ウイークポイントは音楽だったのではないか」と書いた。
故 佐藤真さんは「弱点(音楽の多用、類型的、古風なナレーション)がありつつも時間をおけばおくほど輝く作品」と評した。
人は生まれた時代を生きるしかない。悲しむべきことではない。その中で精一杯やればよい。それだけだ。
柳澤映画は、昭和の映画である。フィルムの時代、スタッフワークの時代。‥‥時代は過ぎた。まもなく平成も終わる。見ておけばよかったという思いと、見なくても何となく判るという不遜な気持ちが滲み混じる。
自主制作5本目のタイトルは、『風とゆききし』。宮澤賢治の『農民芸術概論綱要』の一節「風とゆききし、雲からエネルギーをとれ」から採ったそうだ。
(どうして、後半の「雲からエネルギーをとれ」を省いてしまったのだろうか、残した方がずっと強くて素敵なタイトルになっただろうに。← 余計なお世話、
外野の遠吠えだが、斯界の後輩の繰り言、寛恕を願う。)