2ペンスの希望

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編集は最初の観客

編集は、製作過程でも最も大切な工程である。かつてオーソン・ウェルズは仏カイエ・デュ・シネマ誌のインタビューでこう発言している。
映画における私のスタイルやビジョンにおいて、編集は単なる一要素ではなく、むしろ最重要要素だ。映画は“監督”のものという考え方はあなたがた[カイエ・デュ・シネマ]のような評論家たちがかってに作り上げたものさ。監督業は芸術ではない。もし芸術だとしても、それは一日に一分ぐらいしか発揮されることのない芸術さ。その一分はとても重みのある一分ではあるが、それでもごく稀なことだ。映画作品をコントロールできる唯一の作業は編集だよ。映像そのものだけでは十分ではない。映像はとても大切だが、所詮映像にしかすぎないのさ。重要なのはそれぞれの映像の長さであったり、その映像の次にどの映像が続くかといったところだ。映画の雄弁さは編集室で成形されるものなんだよ」【マイケル・オンダーチェ『映画もまた編集である ウォルター・マーチとの対話』吉田俊太郎訳(2011年6月みすず書房刊からの孫引)】
映画監督の中には、撮影の現場が大好きな監督もいれば、編集が一番わくわくする、と語る監督もいる。共によりよきフィニッシュを目指すことに変わりはないが、働かせる筋肉は大いに異なる。最近は自分で編集する監督さんも増えてきたが、専門の編集マンに任せる人も多い。ハリウッドや昔の日本映画はそうだったようだ。言うまでもなく、編集マンももちろん制作スタッフの重要な一員だ。作り手の側に立つ。脚本を読み込んで製作意図も把握している。その上で言うのだが、編集マンは、観客代表=制作の現場に出張ってきた最初の観客なのだ。自分自身の乏しい経験からもそう思う。
このつなぎで分かるだろうか、流れに無理・飛躍はないか、観客はついて来られるか、独りよがりに陥っていないか。‥‥。読み込んだ脚本を一旦忘れて、映像と音を虚心坦懐に初めて見ることが求められる。監督が自分で編集するより、人に任せた方が良い、と言われる所以もここにある。易しいことではない、と心得ておいた方がいい。視野狭窄に陥った監督は、見たいものだけを見てあとは目に入っていない。映りこんではいけないものが映ってしまっていても、現場では気付かずに見逃すということもよくある。映像だけではない、音のチェックも編集の守備範囲だ。具体的に言えば、例えばこうだ。監督はじめスタッフは、セリフの中身を承知している。少々発音・滑舌が悪くても役者のセリフが何を言っているのか聞き取れた気になっている。しかし、初めて聞く耳には何を言っているのか不明瞭でサッパリ分からない、そんな例が山ほどある。観客からの出先機関としてそのあたりをチェックするのも編集の仕事だ。(もっとも最近は、CG技術の発達などで、消しこみなどの後処理でいかようにも加工できるようだが‥その分 モノつくりの緊張感が薄れてきている懸念は以前に書いた。)
どの世界でも、独善、唯我独尊はいただけない。