2ペンスの希望

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字幕屋

以前『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』【2007年2月光文社新書】が面白かった太田直子さんの新刊『字幕屋のニホンゴ渡世奮闘記』【2013年4月岩波書店刊】を読んだ。
「ハコ書き」や「スポッティング」など字幕制作の具体的な話は知らぬ世界でもないのでへーとかホーとか頷きながら一気に読んだ。「漢字・ひらがな・カタカナの三種類のメリハリが日本の字幕文化を下支えしていること」「ほんの一瞬一コマ一コマの字幕の出し方・タイミングに心を砕く職人魂」「昨今の風潮 吹き替え版とのパイの奪い合い」など触れてみたい話題は幾つもある。が、今日はひとつだけ。
字幕そのものが変質・劣化する兆しが見えている。‥とにかく「早く安く!」と競う。‥。
思うに昔は「人を育てよう」という気風があった。いや、意識的に「育てる」というより、結果的にそうなっていた。いい意味で余計なお世話をする人がたくさんいたのだ。何の予備知識もなく「うっかり」字幕の世界に迷い込んでしまったわたしなどは、しょっちゅう叱られていた。‥‥。彼らは会社の利益のためにわたしを叱ったのではない。どこの馬の骨とも知れぬ新人翻訳者を叱って導いても何の得にもならないだろう。ほっておけば無知のまま消えていく。
彼らは、目の前に存在する「人間」と「作品」をいいかげんには扱えなかったのだと思う。きちんとした仕事をするためには、タッグを組む新人翻訳者にもしっかりしてもらわなければ困る、というわけだ。今の人間に比べて昔の人間が格段に立派だったとは思わない。ごく自然に身についた人情のたぐい、あるいは本能と言ってもいいかもしれない。そばにいる人間がつまづいて転びそうなとき、とっさに手を差し出すのに似ている。
しかし近年、そういう自然な対応が、効率主義とマニュアル主義の毒に侵されて機能不全に陥りつつある。表面的には優しく丁重なのだが、深入りせずによそよそしい。馬鹿丁寧な敬語(それもいささか怪しい敬語)を長々と書き連ねたメールが増え、叱ってくれたり文句をつけたりしてくれる相手は激減した。それどころか、一緒に取り組んでいる映画の話をするのさえ難しいことがある。
」 と書いて、こんなエピソードを紹介している。
わたしに依頼連絡をくれた人が作品のすべてを把握していると思い込み、「いや〜この作品、難物ですね。特にあのラストシーンはどう解釈すればいいのか悩みます。でもおもしろい映画なので頑張ります!」と興奮気味に伝えると、「あ、そうなんですか、わたしは観ていないのでよくわからないのですが」などとクールに返され、一気に気持ちがしぼむ。こういう人に限って「お忙しいところ大変恐縮に存じますが、お原稿は△日までにいただけますよう、なにとぞ宜しくお願い申し上げます」などと微妙にへんてこな丁寧文を書いてよこす。仕事をめぐってもっと一緒におもしろがりたいのに、硬直した「まじめさ」にブロックされて、とりつく島もない。
確かに、どの世界にもロボットのような人間が増えているような気がしてくる。