2ペンスの希望

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豊かになることで失っていくものがある

数日前 ある寄り合いがあった。
そこで同年輩の銀行マンOB・Mさんからこんな話を伺った。
働き盛りの40代、インドネシアでの海外赴任時代の出来事。
当時はメーカーや商社・JICAなどの海外駐在員は皆、限られた高級住宅地に居住し、現地の人々が暮らすような界隈に足を踏み入れることはめったになかった。あるときふとしたことで部下の家に行くことになった。そこで自分が生まれ育った四国の家とソックリなたたずまいの家並み・路地を見つけてビックリしたという話だった。
裏路地での優しく美しい表情の人々との出会い、それは子どもの頃の原風景そのものだった。隣近所があけすけに行き来し、食べ物を融通し合い、世話を焼き合う。しかし、それは、貧しきものが寄り添いあって助け合う、という殊更な美談などではない。そうすることが当たり前、暮らしとはそういうものなのだ、という至極自然な振る舞いだった。 息を飲むような光景。すばらしい人々の暮らしにふれてただただうらやましかった。 懐かしさのあまり、勧められるままにMさんはその夜は泊めてもらった、という話だ。
Mさんだけではない。海外赴任の日本人たちの中には、帰国せず、インドネシアに居残るビジネスマンも少なからずいた‥という話にも強く惹かれた。
路地裏の豊饒。純真・洗心。
豊かになることで失っていくものの大きさに改めて気付かされる。
一時、発展途上国を評して数十年前の日本みたい‥という表現が見られた。しかしだ。アジアの人々は決して遅れているのでも日本のようになることを目指しているわけでもなかろう。自分たちの持てるもので、一番気持ちよく生きようとしている。ただそれだけのことではなかろうか。
どこで読んだのかは、もうすっかり忘れてしまったが「テクノロジーが飛躍的に発展すると、人間の感知しうる経験の幅は狭く貧困になる」と書いたW.ベンヤミンの言葉を思い出した。映画もそうだ。技術が進化し、豊かで軽便になることで、感知しうる経験の幅が狭まり、「貧しく」なっていく。アジア的混沌、猥雑さの奥行き、その豊饒を感知する力が失われれば、すべては痩せ細る、ということだろう。 Mさん有り難う。