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翻訳

英語についてはからきし駄目だった。今もそうだ。読めない。喋れない。
それでも外国作家の本を愛読したりしてきた。もちろん翻訳でだ。
翻訳は一種の批評である」という一文で始まる吉田健一の「翻訳論」にこんなくだりがあった。【典拠:『訳詩集葡萄酒の色』2013年6月14日発行の岩波文庫版】
外国文学の知識を正確な日本語で生かすのは、或る程度の熟練さえあれば、外国文学者にも出来ることであるが、その知識も正確ではなくて、訳文がどうかすると日本語になっていない箇所さえあるのに、翻訳がそれを先に読んだものにその原文よりも真実を語っているように思われ、時にはその一群の読者に、本国でのその原文を越えた影響を及ぼすという、そういう翻訳もある。
つまりはこういうことだ、と言っている(のだろう)。
「翻訳は原文とは別個の、独立した作品になる」こともある。そのためには「英語に対する正確な知識」以上に「訳したくなる程にそれに心を惹かれる」ことが前提であり、「批評眼と、それが意味する愛着と活気を費やす」ことが不可欠だと。
この吉田健一の翻訳を愛でる池澤夏樹は「英語感が残るわけではなく、日本語に媚びてすり寄るわけでもなく、両者の間のちょうどよい距離に地点にいるように見えて、実はそこから少しだけ横に入った典雅な領域に吉田訳は立っている。」と書いた。【「詩のなぐさめ18」岩波書店「図書」2013年9月号】

実例を挙げてみる。
「シェクスピアの十四行詩(ソネット)第18番」

最初の四行。
まず原文。
Shall I compare thee to a summer's day?
Thou art more lovely and more temperate:
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer's lease hath all too short a date:
(……)

吉田健一 訳
君を夏の一日に喩へようか。
君は更に美しく、更に優しい。
心ない風は五月の蕾を散らし、
又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。 
(……)

西脇順三郎 訳
君を夏の日にたとえても
君はもっと美しいもっとおだやかだ
手荒い風は五月の蕾をふるわし
また夏の季節はあまりにも短い命。
(……)

小田島雄志 訳
あなたをなにかにたとえるとしたら夏の一日でしょうか?
だがあなたはもっと美しく、もっとおだやかです。
手荒な風が五月の蕾を揺さぶったりして
夏のいのちはあまりにも短くはかないのです。
(……)

林望 訳
そなたをものに喩ふれば夏の一日(ひとひ)といふべきや
そのらうたさもやさしさも比ぶべきにはあらざれど
をりをり荒き風吹きて五月(さつき)の薔薇をゆすらうか
はたその日々のあまりにも短きことを嘆かうか
(……)

まだまだ、山のように見つかるけれど、
トリは、
坪内逍遥 訳
われ君を初夏(はつなつ)の麗かなる日に比べん歟(か)、
あゝ、君はそれよりもうるはしくして長閑(のど)やかなり。
五月の可憐なる蕾は(ともすれば)烈風に搖蘯(えうたう)せらる、
夏の賃借期限は餘りに短きに過ぐるを例とすなり。
(……)【原文は総ルビだが 煩雑なので一部割愛】

さて、お好みはあるだろうか?
拙は “Rough winds”を“心ない風”と訳した吉田健一を推す。  断然、抜群。
原作と映画の関係もそんなふうに考えてみたくなった。
逐語訳ではなく、批評としての原作映画
メディアも文体も違うのだから、そう考える方が素直で健康的だと思う。